2012.12.04 - Number web - <男子フィギュアの貴公子が語る> 羽生結弦 「17歳の目覚め」(野口美恵)

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僕はどれだけ変われるか。期待を胸に、少年は海を渡った。
様々な試練に取り組み、自分の内面と向き合う日々の中で、
やがて天賦の才は花開き、心もしなやかに成長を遂げていた。

地元宮城で行なわれたNHK杯では、高橋大輔を抑えて初優勝。
GPファイナルに挑む17歳の飛躍の秘密とは?
Number817号掲載の独占インタビューを一部特別公開します。

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「トロントに来たのは、ブライアン(コーチ)がキム・ヨナを育てたからじゃないです。俺はもっと戦略的に考えたんですよ。僕はライバルがいて競い合わないとダメなタイプ。だからショーや試合の公式練習で刺激されて上手くなることが多かった。だったら、その重圧を毎日受けられたら、僕はどれだけ変われるんだろう?  って。4回転を2種類跳べるハビエル(フェルナンデス)の秘密も見たかった。だから、俺をカナダまで突き動かしたものは、ライバルと一緒に練習できるこの環境。ヨナは全然関係ない」

カナダの名伯楽の元で学んだ5カ月に、隠し切れない高揚感。
  トロントのダウンタウンから電車とバスで約30分。メープル並木に囲まれた高級住宅街の一角に、『クリケット・スケーティング&カーリングクラブ』はある。日本人をほとんど見かけないこの街に羽生結弦が移り住み、名伯楽ブライアン・オーサーのもとで練習を開始して5カ月。ライバルの話になると「僕」と言ったり、自分の戦略を語る時には「俺」と言ったり。威張ったり、謙虚になったり。自分の中で始まった大きな変化に、高揚感を隠し切れない17歳の少年が、そこにいた。
  2012年3月、ニースで行なわれた世界選手権。会場が割れんばかりの大喝采のなか、羽生は背中を押されるように、フリーの演目を力の限り情熱的に踊り続けた。
  ショートプログラム7位の羽生は、演技を終えた時点で首位。最終滑走6人の演技を見ていた時、阿部奈々美コーチが言った。
「来年は、海外の先生にも見てもらわないとね」

世界選手権銅メダリストとなった17歳に起きた心境の変化。
  阿部コーチからすると、海外合宿程度の提案だったのかもしれない。しかし、17歳にして世界選手権の銅メダリストになった少年は、故郷・仙台に戻り、オフの計画を立てはじめた頃、その言葉を何度も咀嚼した。
「仙台で練習するのが一番安心だし、家族とも離れたくない。でもあれだけの歓声を浴びたし、期待を背負ってる。もうスケートは自分だけのものではないんだ。表彰台に立ったからには、自分の感情は優先させちゃいけない。新たな一歩として、阿部先生と別れて、自分の足で海外に飛び出さないと」

名門リンクで待ち受けた、スケーティングだけの毎日。
  海外に行くなら、場所はトロントに決めていた。リンク環境やライバルの情報を以前から入手していたし、何よりオーサーという名コーチの存在が大きかった。コーチの依頼をすると、オーサーはまず、羽生のライバルであるフェルナンデスに相談した。すると、彼も二つ返事で大歓迎。すぐに移籍が決まった。
  オーサーがメインコーチを務めるリンク『クリケットクラブ』は、複数のコーチによるチーム制が特徴だ。スケーティングの達人トレイシー・ウィルソン、振付師として世界中からオファーが後を絶たないデイビッド・ウィルソン、その他スピン、ジャンプ、バレエなど、さまざまなコーチが、オーサーを頂点とする1つのチームを結成している。しかもカナダ随一の名門クラブで、古き良き優雅なフィギュアスケートの空気感が漂うのも、日本のクラブにはない魅力である。
  今年5月、「早く4回転サルコウを教えてくれ」とばかりに意気込んで門をくぐった羽生だったが、最初に与えられた試練は、スケーティングだけの毎日だった。
「仙台だと毎日約1時間しかリンクの貸切がなく、ジャンプ練習が優先だったので、基礎スケーティングの練習が不足していました。それが弱点という自覚は実はあったんです」

基礎練習でのつたない動きも、羽生は「嬉しかった」と振り返る。
  このクラブの名物とも言えるのが、練習の最後に全員で行なう基礎スケーティングだ。同じステップをジュニアからシニアのトップまで10~20人の選手が一緒に踏む。すると、世界選手権銅メダリストともあろう羽生が、誰よりもつたない動きを見せていた。
「もうね、嬉しかったですよ」
  羽生はちょっと興奮気味に振り返る。
「『自分ってこんなに出来ないんだ!』って。自分の弱さが見えたので、これを直せば根本的にスケートが変わって、もっと納得いく演技が出来るんだ、新たなステージに上がれるんだ、って思ったんです」

羽生が避けてきた、大人っぽいプログラムへの挑戦。
  スケーティングと並行して、オーサーが与えた試練は、新たに取り組む2つのプログラムだった。オーサーは言う。
「ユズルはいつもドラマティックな演技でファンを感動させてきた。でも今の彼に必要なのは大人の演技で、それは新しい持ち味になる。だからショートは大人っぽくイメージチェンジできるものを、とジェフ(ジェフリー・バトル)にお願いした。そしてフリーは、彼の希望通りドラマティックなもの。でも今までとは違って『技と技のつなぎ』をたくさん入れた複雑で難しいものにするよう、デイビッドに頼んだのです」
  元世界王者で気鋭の振付師であるジェフが選んできたのは、ブルースの定番『パリの散歩道』。ブルースのような「間」のある曲は、激しく動いてアピールできる曲よりも、基礎スケーティング力の良し悪しがはっきりと見えてしまう。羽生が避けてきたタイプのプログラムだった。しかもこれまで演じてきたオペラなどの曲に比べて、感情移入も難しい。
  出来上がった作品は、1歩に長く乗って「まどろみ」を表現したり、力を使わずに加速することで「脱力感」を見せるなど、スケートの基礎技術を多用するものとなった。
「夏、ジェフと一緒にアイスショーを回っている間に披露して、滑り込むうちに基礎力がついてきました。ジェフは自分が作った型どおり、忠実にこなして欲しい振付師らしいのですが、僕がだんだん自分のフィーリングで手を付けたりアレンジしていくうちに、今は『ユズルのものにして』と言われています」

フリーの『ノートルダム・ド・パリ』で課された、3つの試練。
  一方、フリーは『ノートルダム・ド・パリ』。曲自体はドラマティックなタイプだ。しかし、これまた羽生が苦手とする技術や新しい挑戦ばかりが詰め込まれた内容となった。乗り越えるべき試練は、大きく分けて3つある。
  今までの羽生は、ガツガツとパワーで漕がないと前に進まなかった。だが、与えられたプログラムは、漕いで加速するような素人臭い部分が一切ない、洗練された内容だった。
「前は、休むときは休んで、ジャンプを跳ぶときは跳んで、漕ぐときは漕いで、だった。でも今は漕ぐ場面なんか無くて、最初から最後まで全部が技。すべてが繋がってるから、ジャンプで転んじゃうとバツーンってプログラムが途切れちゃう。とにかく苦しいです」

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名コーチが与えた最大の試練は、より一層難易度を上げたジャンプだった。
“無理難題”を乗り越え、羽生はGP初戦のSPで世界レコードを叩き出す。
勝敗よりも、成長を喜んでくれる伸び伸びとしたトロントの環境の中で、
新進気鋭の17歳は、自らの心にあった感情の変化に気づき始めていた――。

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Yuzuru Hanyu
1994年12月7日、宮城県生まれ。'10年、世界Jr.選手権制覇。'11年、四大陸選手権で準優勝しシニア初の表彰台に立つ。'12年には世界選手権で銅メダル獲得。今春からトロントに練習拠点を移し、10月のスケートアメリカではSPで歴代最高得点をマークした。170cm、54kg。

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