2014.02.15 - sportsnavi - 羽生結弦が信じた力…困難乗り越え、頂点へ 震災から3年、金メダルまでの軌跡 (大橋護良)

日本男子初の快挙、転がり込んできた金

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フィギュア日本男子史上初の金メダルを獲得した羽生。FSでは失敗もあったが、SPのハイスコアが偉業につながった【Getty Images】

 金メダルを獲得しながら、羽生結弦(ANA)は複雑な表情を浮かべていた。「本当にびっくりしているとしか言いようがないです。はっきり言って自分の演技には満足していないですし、トリプルフリップという自分の中では割と確率の高いジャンプをミスしてしまったので、少し神経質だったというか緊張していたのかなと思います」。その後に「結果として優勝したという意味では日本人として誇らしく思います」と付け加え笑顔を見せたが、本心では不満の残る出来だった。

 ソチ五輪のフィギュアスケート男子フリースケーティング(FS)が現地時間2月14日に行われ、ショートプログラム(SP)で首位に立っていた羽生が日本男子初の快挙となる金メダルを獲得した。FSの得点は178.64点。合計得点こそ280.09点とハイスコアをマークしたが、SPで前人未到となる101.45点を記録したことを考えれば、本人にとってはいささか物足りなかったのだろう。

 SPを終えた時点で2位のパトリック・チャン(カナダ)とは、わずか3.93点の差。FSでひっくり返される可能性は十分にあった。追ってくるのは世界選手権3連覇中の王者。プレッシャーは尋常ではなかったはずだ。

 演技冒頭、今季は成功率が低い4回転サルコウで転倒してしまう。続く4回転トゥループはしっかりと着氷したが、「割と確率の高い」トリプルフリップでまさかのミス。この時点で金メダルは遠ざかったように思われた。その後は大きな失敗もなく最後まで滑り切ったものの、「全然体が動かなかった」と首を振りながら、苦笑いを浮かべた。

 しかし続くチャンもミスを連発。4回転トゥループは手をつき、トリプルアクセルではバランスを崩した。そして最後のダブルアクセルも失敗し、178.10点とスコアが伸びない。この結果、羽生に金メダルが転がり込んできた。「今回はダメだと思っていました。後半になるにつれて足が重くなってきて、体力もなくなり、マイナスな気持ちも出てきた。その中でやるのも大変でした」と羽生。それでも勝因については「SPがあれだけできたのが大きかったと思います」と、冷静な面持ちで語っていた。

震災で学んだ「信じること」の大切さ

 高橋大輔(関西大学大学院)がバンクーバー五輪で銅メダルを獲得し、日本に歓喜をもたらした4年前、羽生はまだ15歳だった。2009年末の代表選考会で6位に入るなど期待の若手ではあったが、1人のジュニア選手に過ぎなかった。

 11年3月11日の東日本大震災では、練習拠点だったアイスリンク仙台と自宅が大きな被害を受け、それから4日間を避難所で過ごした。スケートをやめようと考えたこともある。「本当に生活することが難しくて、ぎりぎりの状態だったんです。でも水や食料を供給してもらって、たくさんの人に支えられていると感じた」。練習ができない時期、荒川静香をはじめとしたスケーターが開催するチャリティーアイスショーで各地を回った。そうした中で実感したのは「信じること」の大切さだった。被災者に向けた色紙にその言葉を記している。

「信じられるものがなくなりつつある。今の日本には、ひょっとしたらそんな雰囲気もあるかもしれません。でもやっぱり一人一人の持っている力を『信じること』そのものが大きな力になる。そう思いたくてこのメッセージを書きました」

 同年7月にはアイスリンク仙台が再びオープン。競技を続けられるように支えてくれた人々に恩返しがしたい。その一心で練習に励んできた羽生は、翌11−12シーズンに大きく飛躍する。ロシア杯でGPシリーズ初優勝を果たすと、全日本選手権では3位に入り、世界選手権への出場権を獲得。同大会でも初出場でいきなり銅メダルに輝いた。17歳3カ月での世界選手権のメダル獲得は、日本男子では最年少記録。大舞台で結果を残したことにより、注目度も徐々に高まってくる。

キャリアの転機、練習拠点を仙台からカナダへ

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12年5月、練習拠点をカナダへ。羽生はオーサーコーチ(右)と二人三脚で高みを目指してきた【写真は共同】

 続く12−13シーズンは羽生にとってスケート人生の転換期となった。12年5月、バンクーバー五輪でキム・ヨナ(韓国)に金メダルをもたらしたブライアン・オーサーコーチに師事するため、練習拠点を仙台からカナダのトロントに移したのだ。

「カナダへ行く決断は非常に難しいものでしたし、仙台に残っていたいという思いもすごくありました。コーチを替えるというのは自分にとってものすごく大きな変化でしたし、言葉の壁は大きかった」と、当時の苦労を明かす。友人もいない異国での生活に慣れない英語での会話。それでも2年後に開催されるソチ五輪を見据え、より高みを目指すために必死で練習に打ち込んだ。

 その効果は早々に表れ、12年10月のスケートアメリカと11月に行われたNHK杯のSPで当時の世界歴代最高得点を更新。五輪前哨戦としてソチで開催されたGPファイナルでも2位という成績を残した。さらには年末の全日本選手権でも高橋とのハイレベルな争いを制し優勝。一気に五輪のメダル争いに名乗りを挙げる存在にまで成長を遂げたのだ。

 そして今季、オーサーコーチとのコミュニケーションも円滑になり、その才能が全面的に開花する。GPシリーズでは13年10月のスケートカナダ、同11月のエリック・ボンパール杯ではチャンに敗れたものの、ファイナルではそのチャンに雪辱。世界王者との切磋琢磨(せっさたくま)がさらなる進化を呼び起こした。羽生はライバルとの関係をこう語る。

「今シーズンを通してパトリックと何度も対戦するうちに、自分のペースというのがいかに大事かが分かりました。現在は試合に臨む上で良いメンタルコントロールができるようになっています。パトリックがいなかったら今の自分はなかったと思います」

 オーサーコーチも愛弟子の成長に目を細める。
「数年前から彼のスケーティングを見ているが、かなり成長、成熟してきている。このプロセスは草が伸びてくるのをじっと見守るようなものだが、以前との違いが明確になってきた。スケーティングスキルもスタミナも演技も成長してきたと手応えを感じている」

1つ1つの経験が自身の糧に
 全日本チャンピオンとして乗り込んだソチ五輪では、この大会より新設された団体戦に出場し、チャンやエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)らを抑えてトップに立った。演技後は「足が震えた」と笑ったが、緊張を感じさせない堂々とした滑りを五輪の舞台で披露する。迎えた個人戦。金メダル獲得の期待を背負いながらSPで国際大会では史上初となる100点超え(101.45点)を果たし首位に立つと、FSではミスが出たものの何とか逃げ切った。

 この4年間、多くの苦しみを乗り越えてきた。それができたのは「信じること」の大切さを知っていたからこそだ。未曾有の大災害、異国での暮らし、ライバルとの激闘。その1つ1つが羽生の糧になっている。「表彰台に上がったときは、日本の皆さん、世界中で応援してくださった皆さんの思いを背負って演技できたことをうれしく思いました」。この結果で、支えてくれた人々に恩返しができたと感じている。

 震災については多くを語らない。

「本当に何と言っていいか分からないですし、自分が何ができたかというと、自信を持ってこれができたというものが何もなかったんです。ただ、五輪の金メダリストになれたからこそ、復興に役立てることもあるんじゃないかと思っています」

 今後は五輪チャンピオンとして追われる立場へと変わっていく。「今日の演技はベストからは程遠かったです。まだまだできる部分があると思っています。3月には世界選手権があるので、それに向けてまた一生懸命頑張りたいと思います」。進化し続ける19歳は、金メダルを取ってもなお貪欲だ。

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