2015.10.20 - 仲間が記憶する羽生結弦の小中学生時代 (松原孝臣)

仲間が記憶する羽生結弦の小中学生時代
諦めずに練習する姿、リンク外の表情

羽生がスケートを始めた地・仙台

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羽生結弦はスケートを仙台で始めた。小中学生のころには頭角を現していた【写真:アフロスポーツ】

 仙台のあちこちで、羽生結弦(ANA)を見た。薬局で、本屋で、ポスターをみかけ、飲食店で、雑誌の表紙になっているのを目にした。

「やっぱり、地元のヒーローだからね」

 とある店主は笑った。

 羽生は、この地に生まれ育った。スケートを仙台で始めた。今や世界のトップスケーターに上りつめた原点がここにある。

 羽生が小中学生の頃を知る一人に、吉田鷹介がいる。羽生の2学年下になる。

「幼稚園のときに、お試し体験みたいなのでスケートのイベントに参加して興味を持ちました。本格的に始めたのは小学校2、3年生の頃です」

 こうフィギュアスケートとの出会いを語る。小学6年生のときには野辺山合宿に参加、中学生になると全国大会に出場するなどの経歴を持つ。

 羽生を知ったのは、大会での姿だった。

「私が宮城FSCに入った頃、羽生君はまだ勝山のクラブにいました。違うクラブだったけれど、大会のときなどに見る機会はあって、すごくうまいな、と思ったのを覚えています」


仲間の印象に残る、羽生の失敗する姿

 その後、羽生が宮城FSCに移ってきた。同じリンクで滑っているさまを見ると、あらためて思った。

「とにかく、ずば抜けてうまかった」

 驚いたのはその練習っぷりだった。

「とにかく、練習のときの集中力がすごかったですね。オンとオフの切り替えも上手でした。始まる前とかに時間があると、みんなでわいわい遊んでいることもありましたが、練習が近くなると、練習に備えている雰囲気に変わるんです。そして練習となると、とにかく集中しているのが分かりました」

 同時に心に残っていたことがあった。

「やっぱり練習なので、失敗することもありますよね。でも失敗すると、何回も何回も、チャレンジしていた。繰り返し繰り返しやっていて、ぜんぜん諦めないんです」

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仲間たちの心には、競技会での演技を支える羽生の練習姿が印象に残っている【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 練習での姿が心に留まっているのは、吉田に限らない。羽生の3学年下の花城桜子もそうだ。

 花城は小学4年生のときに勝山のクラブに入り、5年生に上がるとき宮城FSCに移った。そのとき、すでに羽生がいた。

「イナバウアーとかビールマンスピンとかをやろうと、お父さんと一緒に柔軟とかストレッチをすごく頑張っていました。男の子って、女の子よりも体が硬いじゃないですか。でも、そこに挑戦していてすごいなと思いました。クラブの練習に加え、自主練習とかもゆづ君は頑張っていました。お姉さんと一緒に来ていましたが、表現とかステップとかお姉さんが厳しく教えていました。『ここをこうしたら』という感じで」

 花城もクラブで一緒になる前から、大会での滑りを見て「すごいな」と感じていたが、練習では別の印象も抱いた。

「大会ではとても上手でした。でも、練習ではジャンプとかけっこう失敗していました。転んで転んで、いつ降りているのかなというくらい失敗していました」

 同時に印象に残ったことがあった。

「できなくても諦めない。とことん、やっていました。失敗してもやめなかったですね」

 

花城を励ました羽生の一言

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羽生はリンクを離れれば、練習とは別の表情も見せたという【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 練習への取り組みを見て、子ども心に「すごいな」と思わずにいられなかったが、リンクを離れれば、別の表情も見せた。

 吉田はこう振り返る。

「性格的には明るい感じでした。明るい面もありつつ、まじめな面もあり、周りとのコミュニケーションも積極的でした。先生方とも練習の話だけでなく世間話をしたり、保護者の方ともふつうに話していたり」

 打ち解けるのも早かった。

「クラブに男の子が4、5人しかいないことと、歳が2つしか違わないこともあって、兄弟みたいに仲良くしてもらいました。陸上トレーニングで一緒だったり、遠征先で一緒にストレッチやったり。練習後、バレーボールみたいな遊びをしたり」

 花城にも覚えている出来事がある。羽生と花城は七北田中学校の先輩と後輩でもある。羽生の卒業と入れ替わりで花城が入学した。

「私はゆづ君の次の代のスケート部部長になりました。そのとき、『部長が校内誌に載せる文章を書かされるから、こういう話を書いたらいいよ、書き方はこう』と教えてくれました。そうそう、中学校ではこんなこともありました。ゆづ君を教えていた先生方もいたのですが、『あなたもスケートをやっているんでしょ、結弦君は授業中の手の上げ方も美しかったのよ』って。ふだんからスケーターなんだなと思いました」

 あるいはこんな言葉を覚えている。

「具体的にいつだったかは覚えていません。おそらく、全中の1つの県代表枠の選考大会が3つあるんですけれど、その選考会と選考会の合間だったと思います。ぽろっと言ってくれたのが、『出る杭は打たれるけど、出過ぎると誰かが引き抜いてくれるから頑張ってね』。そう励ましてくれたのが心に残っています」

 練習で、練習以外での姿を見ていた吉田は、当時、こう思っていた。

「いろいろな面であまりにもすごすぎて、目標にはならなかった。ただすごいな、と感じていました」

羽生から花城宛てに届いたクリスマスカード

 吉田は2011年3月の東日本大震災を契機として、フィギュアスケートから離れることになった。

「リンクも練習ができなくなったし、受験勉強もあるし、いろいろ悩んだのですが、やめようと」

 やめた今も、フィギュアスケートの中継があれば観る。ソチ五輪もテレビで観ていた。

「小さい頃から、『オリンピックで金メダルを獲るだろうな』とずっと思っていたんです。観ながら応援していましたが、とうとうやったな、と感じました」

 話すとき、とてもうれしそうだった。

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吉田はソチ五輪で羽生が金メダルを獲得した時、テレビ観戦していた。「とうとうやったな、と感じました」【Getty Images】

 東日本大震災ののち、沖縄へと移った花城は、こんな出来事を語った。昨年12月のことだ。羽生から、花城宛てにクリスマスカードが届いた。

「(グランプリシリーズ)中国大会の6分間練習のときは、リンクで練習している時間でしたが、リンクにもテレビがあって放映していたんですね。(他の選手と衝突する)アクシデントがあった時、滑っている子たちもお客さんもテレビを観て、みんなが『大変、大変』とすごい心配したんです。その様子とともに、母がゆづ君のお母さんに『沖縄でもみんな心配しているよ』とメールしたんです。そのお礼でカードをいただきました。カードをリンクに飾ったら、みんなが喜んでくれました」

 そしてこうも語った。

「今、受験勉強の真っ最中なんです。『今頑張っていることは3カ月後、半年後にしか出ないよ』と言われます。そのとき、ゆづ君は、小っちゃいときから頑張っていたことを今発揮している、そして今も練習して溜め込んでいる、だからずっと第一線で活躍できるんだなと思いました。努力を怠らなかったからこそです。お手本にしています」

 子供の頃から、誰よりも、と言っていいほど真剣に練習に励み、諦めることなく取り組んできた。同時に、後輩たちを思いやるやさしさも持ち合わせていた。

 その姿を知る2人は、今なお、羽生結弦の当時の姿をしっかりと心にとどめている。そしてその姿は、財産でもある。

(文中敬称略)

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