2013.09.11 - 日経新聞 - 五輪で最高の演技を 羽生、3伯楽と充実の日々

五輪で最高の演技を 羽生、3伯楽と充実の日々
2013/9/11 7:00

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トロントの練習拠点に向かう羽生。部外者立ち入り禁止のため、落ち着けるという

4シーズン前、フィギュアスケートのジュニアタイトルを総なめにした仙台の中学3年生にとって、五輪は「夢の世界」でしかなかった。シニアになって3シーズン、羽生結弦(18、ANA)は世界選手権銅メダリスト(2012年3月)となり、全日本王者(同12月)にもなった。そして今、カナダ・トロントで「こんな早く視野に入ると思わなかった」という五輪に向けてトレーニングを積んでいる。

 
■ネットで受講、午後は3部構成の練習

トロント中心部から地下鉄、バスを乗り継いで約30分、羽生が昨季から拠点にするトロント・クリケット・スケーティング&カーリングクラブにたどり着く。テニスコートやジム、芝生を見渡すカフェもある、緑豊かな完全プライベートクラブだ。
 今春、早大に入学した羽生は午前8時すぎに起きる。インターネットを活用した「eスクール」で大学の講義を受け、午後からは3部構成の練習。90分のスケート練習を2回と氷上以外の練習をこなして帰宅すると、夜12時までに就寝する。
 寝る前のイメージトレーニングも日課だ。昨季のグランプリファイナルで経験したソチ五輪会場を思い出し、五輪で滑る自分をイメージする。「外食もおっくうになってきちゃった」と羽生。自宅とリンクを往復するだけの日々も、充実しているので気にならないようだ。
 

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「トロントでは集中できる」と話す羽生

■選手の意向を優先しプログラム決定
 
 8月までは基礎的な練習に重点を置いた。細かなスケーティング、ジャンプは省きつつ、曲を流してプログラムを滑り切る。ジャンプはジャンプのみまとめて練習し、特に4回転に特化している。
教えるブライアン・オーサー・コーチは「技術的に気づいたことは注意する。モチベーションを上げるのがこの時期の主な仕事。五輪は本当に大きな仕事だから、すべてのプロセスを楽しんでほしい。好きなら楽しいし、楽しければ熱中する」と話す。
 だから、何かを決めるときは必ず選手と一緒に考える。特にプログラムは選手の意向を優先する。好きな曲なら毎日の練習も楽しいからだ。結果として、ショートプログラム(SP)は昨季と同じものになった。「ユズルが昨季と同じ雰囲気の音楽を望んでいた。探したけれど必ず『パリの散歩道』に戻ってしまう。得点も出ていたし、そのまま使うことにした。2年続けて同じものを滑ることは僕もあったし、今もパトリック・チャン(カナダ)がよくやる」とオーサー・コーチ。
フリーのニノ・ロータ作曲「ロミオとジュリエット」はフィギュアでは定番中の定番といえる曲であり、他の案もあった。それでも、東日本大震災のシーズンに違う作曲家の「ロミオとジュリエット」を滑り、このストーリーへの思い入れの強い羽生の意見を尊重した。
 
■3コーチが口そろえ「スタミナ課題」

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振付師のデービッド・コーチからダンスの指導を受ける羽生 

オーサー、トレーシー・ウィルソン、振付師のデービッド・ウィルソンの3氏が指導する体制になって1年。3人が課題として口をそろえるのが「スタミナ」だ。やっと大人の体形になった18歳だから仕方がない面もあるが、本人も自覚するように、演技終盤にバテたり、精神的に疲れてミスをしたりすることが目立った。
 羽生は誰もが認める「リンク一のハードワーカー」だ。しかし、これは褒め言葉とは言い切れない。シーズン途中で燃え尽きてしまう懸念があり、無理がたたってケガをする恐れもある。実際、羽生は今年3月に左膝をケガしている。
 「フィギュア選手は競走馬と同じ。追い込み過ぎるとケガをする。(体力的な)ベースが必要なの」とトレーシー・コーチ。羽生にダンベルやバランスボールを持たせて滑らせることがある。スケートの刃に体重を乗せ、効率よく滑ることを意識づける訓練だ。
 1988年カルガリー五輪でアイスダンス銅メダルのトレーシー・コーチは、オープンで温かい雰囲気の女性だが、羽生は「笑いながら一番厳しいことをさせる。体力アップを考えてくれているのは分かるけど」。取材した日も練習の最後に「クールダウンね」と言って、中腰で左足を右足に乗せながらのスケーティングを課した。羽生は「筋トレ並みにきつかった」と嘆く。
 
■4回転トーループ、ほとんど失敗せず
 
 スケーティングが良くなり、もともと好きだったジャンプの精度がさらに上がっている。「ブライアンのアドバイスもあって、4回転でトーループはほとんど失敗しなくなった。ただ、サルコーはトーループと跳び方が全然違うから難しい」。調子が悪いとサルコーは全く跳べなくなることもあるそうだが、今季は2種類とも演技に確実に入れる予定だ。
 「だって大きな得点源じゃない。2度4回転を跳ぶにしても、2種類跳べばそのリスク、技術の高さをジャッジも理解して、点に反映するようになっているからね」とオーサー・コーチは狙いを語る。
それにしても3人のコンビネーションは絶妙だ。この時間はトレーシー・コーチ、ここはデービッド・コーチと分担が決まっているわけでなく、羽生の他に昨季世界選手権銅メダルのハビエル・フェルナンデス(スペイン)らも教えねばならない。それなのに、入れ代わり立ち代わり選手の前に現れ、効率良くマンツーマンでの指導となるのだ。
 
■次々現れるコーチからアドバイス受け
 

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練習仲間の欧州王者フェルナンデス(右)や3コーチと話し合う羽生

 オーサー・コーチはリンク中央で羽生にジャンプのアドバイスを終えると、リンクサイドへと去る。羽生が再び何度かジャンプをすると、「ブラボー!」。3人で一緒に手をたたき、まるで大学の部活動のように盛り上げた。そしてしばらくたつと、今度はトレーシー・コーチが羽生に近づいていく。
 「ジャンプする数歩前の部分、トランジション(技へのつなぎ)が私の担当ね。ちょっと前はトランジションで難しいことをしても得点に差が出なかったのだけれど、今は報われる。その分、4年前よりスケーターは大変よ。休む暇はないし、ミスしたらリカバーが難しい」とトレーシー・コーチ。
 難しいトランジションをどれだけ美しく見せられるか? 音楽がかかると、トレーシー・コーチが一歩引き、デービッド・コーチが前面に出てくる。「ジュリエットはバルコニーにいるの。視線を斜め上にしないと、ジュリエットに届かないよ」
各コーチから次々と言われるので、混乱することもあるという羽生。「でも、それぞれ専門のプロ。全員の言うことが理解できて、やり遂げた時の完成度、達成感はすごい」と前向きに話す。
 
■付き合い長い3コーチ、あうんの呼吸

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羽生について語るトレーシー・コーチ(左)とデービッド・コーチ 

 オーサー・コーチによると、この3人は選手に適当に近寄っているように見えて「タイミングは計っている。これはすごく重要。僕らには不思議な相性があるんだ」。「ここはこの人の出番」というのが、あうんの呼吸で分かっている。80年代のカナダフィギュア界をリードしたオーサーとトレーシーの両コーチは、10代前半からもう40年近い付き合い。同年代のデービッド・コーチは彼らの振り付けもした。いい意味で、青春の明るさを残しているようなレッスンだ。
7年前から本格的に3人で指導を始め、金妍児(キム・ヨナ、韓国)を2010年バンクーバー五輪で金メダルに導いた。当時、金妍児への韓国国民の期待、メディアの取材攻勢は、日本の浅田真央(中京大)に対するそれが普通に見えるほどすさまじかった。
 
■五輪金の金妍児を取材攻勢から守る
 
 1984年サラエボ五輪で銀メダルを獲得したオーサー・コーチは、次のカルガリー五輪では旗手を務めた。熱狂する国民の応援を背に臨んだ母国開催の五輪。僅差で金メダルを逃し、「プレッシャーをやりくりすることにエネルギーを費やし過ぎた。あの重圧の中でよくやったとは思うけれど、もっとレベルアップすることに集中して、強気であるべきだったかもしれないね」と振り返った。
 金妍児を取材攻勢から“広報部長”となって守ったオーサー・コーチは、「ユズルがいつも通り、地に足がついていられるよう守るのも僕たちの仕事」という。一方、リンク内の問題にはあまり口出ししない。いったん氷の上に乗り、音楽が鳴り始めたら、選手にしか責任はとれないからだ。
 「ブライアン? 何も言わないなぁ。とりあえず僕のペースに合わせてくれる。僕は集中するのは簡単だけど、(気持ちを)コントロールできなくなるときがある。そんなとき、僕を笑わそうとするなどして助けてくれるかな」と羽生は話す。
 
■魔法をかけたかのような演技、五輪で

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 来年2月に迫るソチ五輪。フィギュア男子は厳しい戦いだ。いつも結果を予想しないオーサー・コーチたちは、まずは五輪を存分に楽しんでほしいと選手に願っている。「本当に素晴らしい大会だから。その興奮を利用はするよ。マジックモーメントを起こすためにね」
 トップ選手といえども毎回いい演技はできない。まして、魔法をかけたかのように観客やジャッジを取り込み、会場の雰囲気を一変させてしまうような演技ができるマジックモーメントは、せいぜい年に1度だろう。「それが五輪で起きるよう、戦うツールを与え、その道を示してあげたい。毎週、小さな目標を立てて、クリアして、前に進んで……。まずは全日本(選手権)だ。大変だよ、日本は」とオーサー・コーチ。
 羽生はネットでライバルの演技をチェックして、「うかうかできない」と刺激されているという。オーサー・コーチは笑いながらこう話していた。「ソーシャルメディアの類いは見るな。自分以外のものを気にすると、気がおかしくなるだけだ」
 (原真子)

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