2014.02.16 - Number web - 羽生結弦の金メダルは歴史の上に。 仙台人として、そして日本男子として。 (野口美恵)

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金メダルを手に微笑む羽生結弦。会見ではライバル、コーチ、先人たちへの感謝を語った。(能登直)

 羽生結弦は2014年2月14日、日本男子フィギュア初となる五輪金メダルを獲得した。19歳の少年が成し遂げた快挙。その背景には、羽生の力を最大限に開花させた、日本男子フィギュアの歴史の存在があった。
 今年1月、羽生がホームにしているトロントのスケート場。ソチ五輪を前に、ブライアン・オーサーコーチは自分のオフィスに呼び出して、こう諭した。
「オリンピックには魔物もいればマジックも起こる。しかしユヅルは全日本選手権がいい経験になったはずだ。18000人の観客の前で、猛烈な五輪代表レース。しかもファンはそれぞれ違う選手を応援している。そのファンの荒波をかき分けて演技する状況のなか自分をコントロールしたユヅルをみて、ああもうオリンピックなんてこれに比べたらそよ風みたいなもんだな、と思ったよ。ユヅルならオリンピックをマネージングできる」
 オーサーが語る“荒波”とは、高橋大輔、町田樹、小塚崇彦、織田信成、無良崇人といった世界トップを目指す選手たちが醸し出す、日本男子の強烈なプレッシャーのことだ。その中で自分に集中し続け、2年連続で全日本王者となった羽生。この日本男子のライバルの存在が、五輪金メダルへの原動力となった。

佐藤信夫、佐野稔と受け継がれていった男子の系譜。
 では、いつから日本男子の層はこんなに厚くなったのか。
 日本男子は1932年レークプラシッド五輪で初参加し、メダルへ最初に近づいたのは、浅田真央の現コーチである佐藤信夫だった。佐藤は日本で最初に3回転ジャンプを成功。当時は連続写真を繋いだパラパラ漫画のような参考資料を見ながら、3回転を習得したという。'64年のインスブルック五輪で8位入賞、'65年世界選手権4位となった。
 佐藤は引退後、コーチとして後輩の育成にあたる。その中で頭角を現したのが、佐野稔だ。'76年インスブルック五輪は9位、そして'77年世界選手権で日本男子初のメダルを手にした。アイドル気質の佐野は、日本で最初のフィギュアスケートブームを沸き起こす。スケートの魅力を日本に幅広く伝えようと、引退後はスケート教室やアイスショーに力を注いだ。
 その活動の一環として、佐野が仙台で行った子供スケート教室に羽生の姉が参加。その姉にくっついて羽生は地元のリンクを訪れた。

「僕は姉についていってスケートを始めることが出来た」
「仙台に生まれ、姉が先にスケートを始めたからこそ、僕は姉についていって自然の流れでスケートを始めることが出来た」
 佐藤、佐野、羽生の姉へと繋がった細い糸が、羽生をスケートの世界へと導いた。1999年、羽生が4歳の時だった。
 一方、日本スケート連盟は五輪のメダル獲得に向けて、'92年夏から本格的な選手強化に取り組んでいた。日本は選手層が薄いために、伊藤みどりのようなトップ選手が出ても1人だけに期待が集まり、五輪のような大舞台では重圧がかかりすぎる。そこで全国から小学生を集めて有望選手を発掘する合宿をスタート。選抜選手を幼少期から国際大会などに参加させ、試合経験を積ませるようになった。
 その一期生が、仙台出身の荒川静香。その後、男子は、高橋、織田、小塚、そしてもちろん羽生もその一人として発掘された。

同じ仙台出身、荒川静香の金メダル獲得で芽生えた夢。
 ところがスケートを始めた頃の羽生は、喘息持ちの虚弱体質。今以上に身体が細く、同年代の男子に比べて筋力がない。新人発掘で潜在能力は評価されていたものの、同期の選手が小学生の頃から3回転を跳べるようになっても、羽生は跳べなかった。
「なんで僕だけ跳べないんだろう。悔しい。僕も3回転を跳びたい。みんなに勝ちたい」。毎日そう考えていた。
 勝ち気な性格と、スケートへの情熱が実を結び始めたのは中学生のとき。少しずつ筋力がつき、3回転を1つ跳べるようになると、あっという間に5種類の3回転ジャンプを身につけた。
 '06年のトリノ五輪で、同じく仙台出身の荒川が金メダルを獲得すると、羽生の心に、ひそかな夢が芽生えた。
「日本女子初の金が荒川さんで、日本男子初めての金メダルが僕で、2人とも宮城県出身、というのが夢。僕が生まれ育った町だからこそ、仙台への思いは強い」

満を持したシニアデビュー直後に起きた東日本大震災。
 '10年世界ジュニア選手権で優勝すると、翌シーズンはいよいよシニアにデビュー。'11年の四大陸選手権は2位と活躍した。ところがその1カ月後の3月、大好きな仙台の街は、東日本大震災に見舞われる。ホームリンクは営業停止になった。
 羽生は再開までの4カ月間、練習場所を求めて30以上のアイスショーを転々とし、ショーの合間に練習をした。不安なジプシー生活ではあったが、逆境をむしろ力に変えた。仙台では常に自分がトップ選手だが、無良や小塚、織田といった世界トップの男子と一緒に練習ができる。無良と4回転のジャンプ競争をしたり、小塚のなめらかなスケーティングを見たりと、羽生はすべてをプラスに捉えた。日本男子の層の厚さが、羽生が立ち直るパワーになった。
 勢いづいた'12年3月の世界選手権では、渾身の演技で銅メダルを獲得。その後、より高みを目指そうとトロントへ拠点を移す。海外の選手に視点を向けると更に飛躍的な成長を遂げ、'12年、'13年と全日本選手権の連覇を達成した。

「追い込まれた状況だったからこそ、僕は成長できた」
 そして迎えたソチ五輪。日本スケート連盟の強化策が成功し、高橋、町田といったメダル候補とともに出場した。メディアの取材が羽生1人に集中しないため、高橋と町田が記者会見をする裏で、羽生自身は身体のケアをするなど、上手にペースを保つことが出来た。
 ショートでは圧巻の演技で101.45点と世界レコードを記録。フリーはトップ選手全員がミスを連発するという展開のなか、ミスを最小限に留めたことで、パトリック・チャン(カナダ)を凌いだ。2月14日、わずか19歳で五輪の金メダルを獲得した羽生は、その勝因をこう振り返った。
「やはり日本男子シングルがものすごくレベルが高くなっていて、どのようにしてまずオリンピックの切符を勝ち取るかという状況でした。自分を高めなければならない状況になった時に、人はやはりすごく練習し努力する。追い込まれた状況だったからこそ、僕は成長できたと思います」
 そして、金メダルへの思いをこう語った。

荒川さん、高橋選手、小塚選手……すべての人に感謝を。
「震災でリンクを失った時、アイスショーに呼んでいただき滑ることができたこと、荒川さんや高橋選手や小塚選手らたくさんのスケーターがチャリティーイベントを企画してくれてリンクが復活したこと。そのお陰で僕はここにいられると思います。自分は今ここに1人で立っています。でも表彰台に上ったとき、日本の皆さんの思いを背負って演技できたことをうれしく思いました」
 日本男子フィギュアは一歩ずつ、一歩ずつ、後輩へとバトンを託しながら階段を登ってきた。誰が欠けても羽生の金メダルは無かった。そしてその重みを羽生自身が一番感じている。一夜明け、興奮から少し気持ちを落ち着かせた羽生は言った。
「昨日の演技には納得していませんが、最終的には金メダルという評価をいただいたことを誇りに思います。僕はスケートが好きなのでまだまだ現役を続けます。日本男子らしく、敬意の気持ちを忘れないようにありたいと思います。日本国民として恥じない人間になれるように日々努力していきたいです」
 羽生の快進撃はまだ終わらない。日本男子フィギュアの新しい歴史をこれからも刻んでいく。

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