2015.11.27 - 羽生結弦の魅力は「獣」に変わる瞬間にある

阿部 健吾 :日刊スポーツ新聞社記者

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NHK杯の公式練習での羽生結弦選手。ショート、フリーとも見どころ満載のプログラムを用意している(写真:田村翔/アフロスポーツ)

 

27日、フィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズ最終戦となるNHK杯が長野市・ビッグハットで開幕する。シリーズの上位6人が進むGPファイナルへの出場権をかけて、約1年ぶりの母国での試合となる羽生結弦は優勝候補の筆頭だ。2シーズン目を迎えるショートプログラム(SP)の洗練と進化、初めて和風のプログラムに挑み安倍晴明を演じるフリー「SEIMEI」。初冬の信州での焦点は多々あるが、個人的にはいつ「あの演技」の再来があるのかと、視線を送るばかりだ。

羽生結弦は「獣」である。

そう言い切ると、かなりの反目を受ける気がするが、それはもちろん、理知的なしゃべり方であったり、某CMで全開の「王子様キャラ」だったり、ファンクラブまでできた中国の女性が言う「日本の少女漫画の主人公みたい」な容姿だったり、反論材料には事欠かないのは確かだろう。だが、やはりそれでも羽生が最も羽生らしくあるのは、そのイメージすべてを覆してしまう瞬間にある。

 

忘れられない2012年ニースでの演技

これまでで最も印象に残った演技はどれか。そう聞かれれば、2012年、フランスのニースで開かれた世界選手権のフリープログラムだと答える。金メダルを獲得したソチ五輪でも、初めて日本一になった全日本選手権でもなく、それは日本男子では最年少記録となる17歳3カ月での世界選手権メダル獲得となった演技だった。

日本は寒さが残る3月だというのに、世界有数のリゾート地であるニースは「こんな暖かいところでフィギュアの大会をやってはいけないよね」と関係者が半ばあきれるほど、氷の世界とはかけ離れた陽光が照らしていた。会場は氷を張り、冷房を効かせ、世界選手権という大舞台のために整備されたが、やはり会場外の「陽気さ」のいくばくかはリンクにも観客席にも流れ込んでいた。仮設のスタンドに陣取った観客のスケーターを愛でる声援も、どこか違う「熱」を帯びていた。しかし、羽生の滑りはその熱をいったんは消す息吹を起こし、違う「熱」をもたらすものだった。

フリーの曲は「ロミオとジュリエット」。伝統的な悲恋の物語を演じることが命題であったのだが、その時にリンクにいたのは、とても生半可に主人公「ロミオ」を投影できるような羽生の姿ではなかった。喜怒哀楽に還元できる感情という言葉を寄せ付けない、理性を退けて、リンクの上で表現をするということ自体を揺るがすようなスケーターがいた。

序盤から4回転ジャンプ、トリプルアクセルと順調に流れていくまでは、その他のスケーターを見る目と同じような視線がスタンドから注がれていたと思う。一変したのは後半に向かう途中のステップから。そこで羽生は突如うずくまるように倒れた。スケート靴が氷のくぼみにはまるというアクシデント。体勢を立て直して即座に滑り始めたが、「ロミオ」を演じてきた1人の日本人の若者がそこから豹変したように感じた。体力的にきつく、スピード感、躍動感が失われるのが定石のはずの後半なのに、激しく肉体をむち打つようにしならせ、ジャンプを次々決め、肉体の限界をさらけ出すように乗り込んでいった。

 

「嘘としか思えない驚きの瞬間」だった

そして、吠えた。最後の見せ場となるコレオシークエンスに入る直前、なぜか理由はわからないが、羽生は吠えた。悲恋の物語の象徴と言うにはあまりにも異質な雄たけびをとどろかせるように。その瞬間、観客席からは顔、口の細かな動きまでは見えないはずなのに、一瞬の静寂の後、会場の熱気が急騰した。南仏の陽気さが生む「熱」とは異なる、羽生の動きが生み出し、波及させた「熱」が会場を覆った。それも突如に。そんな瞬間はそれ以降の大会では感じたことがない。

映画批評家にして、傑出したスポーツ批評も行う元東大総長の蓮実重彦氏は、著書『スポーツ批評宣言』の中で、こう記す。

「スポーツには、嘘としか思えない驚きの瞬間が訪れる。また、人はその驚きを求めて、スポーツを見る。文化として始まったものが野蛮さにあられもなく席巻される瞬間を楽しむのです」

「不意に文化を蹂躙する野蛮なパフォーマンスを演じること。それを、運動することの『知性』と呼ぶことにしましょう。(中略)それを周囲に組織する能力を、運動することの『想像力』と呼ぶことにしましょう。『知性』と『想像力』とは1つになったとき、そこには動くことの『美しさ』が顕現します」

羽生の演技が終わり即座に考え込んだ。興奮と、驚嘆と、畏怖と。感情の波打ちに揺さぶられながら、この文章のことがよぎった。今のは動くということをあられもなくさらしてみせた滑りだったのでは。だから美しかったのではないか。それが1つの結論だった。スポーツを見ていて、嘘としか思えない瞬間を生み出せる逸材に出会った時間だったのだと。

そう思ってから3年あまりが経った。その間に羽生は日本一になり、そして世界一になるまで一気に駆け上がった。本人いわく「自分の気持ちをフルに出していくようなプログラム」で全身全霊を捧げて滑りきり、頂点に君臨するまでになった。ただ、個人的にはあのニースの演技を超える瞬間には出会っていない。もちろん、成績という点数からみれば「それ以上」の演技はあまたあったのだが。


羽生が目指す競技と学問の高度な両立

羽生はとてもスマートだ。早稲田大学の通信制に通い、「予想以上に大変」な生活をトロントで続けている。競技との両立は大変だが、決して弱音は吐かず、睡眠時間わずか2時間で何日も生活し、きちんと課題をこなした時期もあった。心理学や統計学、数学に関心を置き、人間科学からフィギュアスケートの技術や表現力の向上を視座している。

自らの肉体の動きをどう競技に沿わせ、最大出力を発揮できるかということにアプローチしているのだと思う。だが、そのような「頭」からの手法にのめり込むのも、自分の制御の利かない動きを見せた肉体についての体験が基になっているのではないか。そう推測している。

ジャンプの回転数や、さまざまな曲調にシンクロさせる才覚は、フィギュアの魅力である。一方で、体の中でも特別に扱いづらい脚という部位に厚さ数ミリのブレードをつけた靴を履き、脚以外の体全身を預ける行為もまた、魅力の1つだと思う。制御しようとする心身に、突然どうしようもなく信じられないような動きをする瞬間が訪れる。それは何かしらを表現し、それが得点化されるという客観性に支えられるスポーツだからこそ、深い印象と興奮と驚きを見ている者に与える。そして、それができる選手が羽生結弦なのだ。

今季はフリーに「和」をテーマにした安倍晴明を演じるプログラムを持ってきた。僕が見たいのは、確固とした物語がある演技を見せながらも、そこから逸脱してしまう、「動き」が「動き」だけで成立してしまうような時間。勧善懲悪というストーリーを忘れさせるような驚嘆の時間だ。いつニースの再来が訪れるのか。予想できないからこそ、羽生を見続ける楽しみはある。

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