2012.10.22 - web sportiva - アメリカ大会で逆転負けも、羽生結弦の未来に不安を感じない理由 (青嶋ひろの)
青嶋ひろの●取材・文 text by Aoshima Hirono 能登直●撮影 photo by Noto Sunao(a presto)
スケートアメリカでショートは1位も、フリーでふるわず総合2位だった羽生結弦
「ここで負けちゃったので、次は絶対勝たないといけない。せっかく地元での試合(11月に仙台で開催されるNHK杯)ですし、相手が髙橋(大輔)さんだろうと、チームメイトだろうと、絶対次は勝ちたいです!」
GPシリーズの初戦、スケートアメリカのフリー終了後の共同取材。3分46秒という短い間に、「絶対勝ちたい」の言葉を、仙台生まれの17歳、羽生結弦は4度も繰り返した。
悔しい気持ちは、よくわかる。今大会の会場入り後、3度滑った公式練習では、そのすべてで驚くほど絶好調。4回転トーループも4回転サルコウも、これでも かと決めて見せた。前日のショートプログラムでは歴代最高得点の95.07点で、2位の小塚崇彦を10点近く引き離して1位。フリー前、誰もが彼の優勝を 疑っていなかったし、ミスをしたとしても4回転一度くらいではないか、と考えていた。そのくらい彼が負ける要素はなく、勝てる試合だったのだ。
それが蓋を開けてみれば、4回転トーループ転倒、4回転サルコウ転倒、2回転ルッツ両足着氷、コリオグラフィーシークエンス(ステップ、ターン、スパイラ ルなどの連続)は認められずノーカウント……とミスが続いてしまう。フリー3位、総合2位にとどまったのが不思議なほどの出来だった。
「まだこんなもんなんですよ、今の自分は。あれほど安定していた最初のトーループでこけちゃったことで、かなり集中力が乱れて、最後まで……。情けないです、本当に」
しかし、これだけの大失敗を前にして、現地の日本チーム関係者や報道陣に悲壮感はなかった。それは羽生結弦が公式練習で、ショートプログラムで、ジャン プ、スケーティング、プログラム表現のすべてにおいてレベルアップした姿を見せていたからだ。また、彼がほんとうは本番に弱いわけではなく、これまでもさ まざまな失敗をすべて短期間で昇華し、シーズン終わりには必ず課題をクリアしている、その強さを誰もが知っているからだ。
日本人選手が表彰台を独占したスケートアメリカ。羽生の次戦は11月のNHK杯
「絶対次は勝ちたいです!」
彼が言うならば、やってくれるだろうな――何の疑いもなく、周囲の誰もがそう思えるのだ。
羽生結弦は、逆境に強い。プレッシャーやトラブルを楽しめる、「多少の困難があったほうが燃える」などと言う、ちょっと特異な強さを持っている。
ふだんの試合でも、アクシデントのひとつやふたつ起きたほうが「かえって開き直り、気持ちが落ち着く」というのだ。たとえば今年3月の世界選手権では、棄 権を考えるほどの捻挫を大会期間中に負い、さらにフリー直前にエッジケースや衣装の手袋を紛失しかけながら、見事にフリー2位、総合3位。
今回のスケートアメリカでも、飛行機の出発に出国対応が間に合わず、乗り遅れるというハプニング。スケジュール管理が最重要事項となる試合で、なんと到着 予定が丸1日遅れてしまったのだ。焦るオーサーコーチをよそに、「ちょっと大変でしたけど、自分の中では吹っ切れました」などとうそぶき、ショートプログ ラムでは驚異の高得点を叩きだした。
これまでの彼のスケート人生をふり返っても、この種の強さは際立っている。たとえばホームリンクを失うという長期的な困難に2度見舞われ、2度ともそれを飛躍のきっかけにしているのだ。
スケートリンクが経営難で一時閉鎖された時には、「十分に練習できない辛さ」をバネに替え、リンク再開後、中学1年時の全日本ノービスで優勝。そして、昨年の東日本大震災で再びリンクを失った時も、アイスショーの全国行脚で練習不足を埋め、世界選手権の銅メダリストに。
そんな「逆境王」の羽生結弦にとって、今年のシーズンオフはあつらえたように苦難の連続だった。17歳での世界選手権銅メダル獲得は、嬉しいことばかりで はなく、密かに強い風あたりの元にもなった。「僕の結果を本当に祝ってくれる人なんて、少ないと思う」などと思いつめた言葉を吐くほどに。
世界中の男子スケーターが自分をターゲットに追いかけてくるという立場に、いきなり立たされる。そんな「周りの目」の変化も、ひと夏を通して感じ続けた。若き銅メダリストには多くの注目が集まり、殺到する取材、ふくれあがったファンの数に、戸惑うこともあった。
また外国人コーチへの変更、海外(カナダのトロント)への練習拠点変更、英語もままならないまま、慣れない外国暮らしの始まり……。大きな環境の 変化は、それだけで大きなストレスだ。さらに急なコーチ変更に賛成しない人々を、納得させなければならない、自分が頑張らなければ新しいコーチの評価にも 響く、そんなことも盛んに気にしていた。
そして、自ら設定した4回転トーループと4回転サルコウ、2種類の4回転を試合で跳ぶという、大 きな課題。加えて、彼の弱点を克服すべく、新コーチ、ブライアン・オーサー、スケーティング担当コーチ、トレイシー・ウィルソン、振付師デイビッド・ウィ ルソン、ジェフリー・バトルが結託して、まるで悪だくみのように彼に課した「鬼プログラム」。ジャンプのテイクオフ前の複雑なムーブメント、一部の隙もな いトランジション(ジャンプとジャンプの間のつなぎの演技)、現在の彼の技術ではとてもこなしきれない高度なステップ……。
それらで組み 立てられたショートとフリーのふたつのプログラムは、「これは試合で勝つことを考えていないのではないか?」と首をひねりたくなるほど高難度だ。カナダの 一流指導陣は、目の前の試合で勝つためではなく、乗り越えることで羽生がさらに成長するため、試練としてこのプログラムを与えたのだ。
高い高いハードルを前に、目いっぱい練習に励もうとしたこの夏。しかし3月に傷めた足首は「まだちょい痛い」(羽生)状態で、痛みと戦う毎日だった。夏を 何とか乗り越えたころには、季節の変わり目で、持病のぜんそくの症状がひどくなり、最悪の体調でシーズンを迎えた。初戦のフィンランディアトロフィー (10月)ではガリガリに痩せ、新しいコスチュームが大きすぎて着られなかったほどだった。
どうだろう? 並みの選手ならばひとつで、十分、1シーズンふるわなかった理由になるくらい、逆境のてんこもり。これが、17歳の少年を襲ったのだ。
それでもこの少年のことを……私たちは、それほど心配する必要はない。数多の壁を前にして、「いやあ、大変だなあ、僕!」そんなことを言いながら、羽生結弦はうひょうひょと笑いだす。
「プレッシャー、大好きですから」「トラブルだって、いいきっかけになるんですよ」
さらりとそこまで言われた日には、ほんとうに開いた口がふさがらない。
実際、今回は残念ながらすべて披露できなかったが、4回転トーループもサルコウも、抜群の安定感で手中にしている。鬼のようなコーチたちが教えこんだスケーティングスキルも、繊細なプログラム表現も、ジャンプミス連続の中でその片鱗を見せている。
フリーでその強さを見せられなかったのは、ショートで余裕の高得点を出してしまったから? 彼にとって心地よい「逆境」が、足りなかったのでは? そんなジョークを言う記者もいたが、あながち外れてはいないのかもしれない。
だから今回の結果を前にしても、決して心配してはいけない。羽生結弦という「怪物」は、遅かれ早かれその非凡さのすべてを、氷の上で見せてくれるだろう。私たちは近いうちに、怪物に圧倒される快感を味わうことになる。それがほんの少し、先延ばしになっただけだ。