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2011.07.12 - 城田憲子 x 都築章一郎 对谈全文

2011.06.14 日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(1)
http://hochi.yomiuri.co.jp/column/shirota/news/20110614-OHT1T00200.htm

 昨年は「振付師列伝」を書きましたが、今オフはコーチを特集する。特に日本のメダリストを育てた日本人コーチたちにスポットをあて、紹介していきたい。現在の黄金時代も一日にしてならず。世界の壁に阻まれつつ、多くの指導者たちが模索してきた「日本のフィギュアスケート」とは…。

 日本に初めてメダルをもたらした時の主任コーチが、1960年全日本ジュニア選手権優勝の経験を持つ、都築章一郎氏(73)である。77年、念願の世界選手権が初めて日本(東京)で開催したが、それが決定した瞬間からメダルを取るべく対策がなされ、最強チームが出来上がった。当時の強化部長は竹内巳喜男氏(元全日本アイスダンスチャンピオン)。先を見る目とセンスの良さ、日本が勝つためのチームを率いるに十分の資質を持っていた。

 そして役割分担がなされ、男子選手のホープとして、佐野稔(56)に焦点が当てられた。彼を発掘し鍛錬を積ませたのが、都築氏だった。当時、大学生で、合宿で山梨県のリンクに何度となく滞在し、佐野と出会った。都築氏の直感力とハングリー精神は常に彼の身体の芯にあった。ちなみに日大スケート・フィギュア部を新設したのも彼だ。卒業後は、池袋にある東武百貨店に入社。上層階にあるスケートリンクを担当しながら、山梨県の国体選手たちの指導にあたった。そんな中、当時小2だった佐野の才能を見出した。

 今でも鮮明に覚えているシーンがある。東武百貨店の真新しいリンクに、私もたまたま練習をしに行った時、小さな男の子が親御さんに連れられて、氷上で滑っていた。都築氏が「山梨から練習に来ているんですよ。これから面倒を見て行くのです」と言っていた。新米コーチと弟子との関係に少し不安…。しかし、やるぞ!と言う気迫。そんな感情が氷上で沸いていた事を思い出す。

 始めは山梨と東京を行ったり来たりの練習状態だったようだ。ある時、佐野親子が都築コーチのもとにやって来た。「息子を世界一してくれ」と言う親父さんのお願いだった。都築氏は指導者として実績のない「僕に任せてくれる」という親御さんの気持ちがうれしいのと、その期待にこたえるための努力の厳しさを胸に収めながら「絶対にモノにする」と言う誓いを立てた。都築コーチと佐野との世界を目指しての合宿生活が始まった。「お前は、スケートで世界一に成るんだ!」「都築がやって見せる!」というスローガンを掲げて…。

 ◆都筑氏・城田対談

 都筑「お久しぶりです。城田さんとは今日まで、いろいろな経験をさせていただいてるんですよ」

 城田「私は都筑先生から、けっこう辛口のご指導を受けてきましたけれど(笑)。さて今回、このコラムで世界選手権のメダリストを育てたコーチの先生方をご紹介していくんですが、一番最初に獲得したのはどなたかと言ったら、都筑先生なんですよね。77年、佐野稔君の銅メダルが日本で最初」

 都筑「はい、実は(笑)」

 城田「まずは先生がコーチになる前のお話から、お聞きしましょう。先生が全日本に出ていた当時、私はまだジュニアだったかな? 全日本に出る前、全日本ジュニアで優勝されたんですよね?」

 都筑「そうですね。昔はジュニアで優勝しないとシニアに上がれませんでしたから。だから当時はシニアの選手は10人前後しかいなかった」

 城田「私の時代はその決まりが少し緩くなって、全日本ジュニアの上位3人までがシニアに上がれました。先生はそのジュニアの優勝後、比較的早く、コーチになられたんですね」

 都筑「そうです。もう大学生のころから教えてました。だからコーチになってすぐ、63年くらいには、もう佐野と出会ってるんです」

 城田「佐野君は山梨の人。当時の先生は東京で教えてらしたけれど…」

 都筑「石和のリンクに僕らが練習に行ったときに、一緒に練習していた佐野と長久保(裕)に出会ったんですね」

 城田「そこで先生は佐野君の素質を見抜いて、東京に引っ張ってきた。でも佐野君はまだ小学2年生。最初のうちは…」

 都筑「僕の方が山梨に通っていました。土日に7時間かけて、車でね。当時の僕は東武百貨店のサラリーマンをしながらスケートも教えていたんです」

 城田「あのころ、東武百貨店の上の階にリンクがあったんですよね。なかなかちゃんとしたいいリンクでした。そこで都筑先生が教えてらしたことは、私も覚えています。今もそうですが、そのころもスケートをしている若い人は好きなように練習して、スケートだけやっていればよかったけれど、都筑先生は地に足がついていましたね。学生時代は勉強しながらスケートも教えて、就職すれば会社の仕事をしながらスケートも教えて」

 都筑「僕なんて、自分が選手としてスケートを続けられるような恵まれた環境じゃなかったんですよ。そのころは後楽園のリンクがフィギュアスケートのメッカでしたが、僕なんか敷居が高くて入れない(笑)。それで学生のころは新宿で練習していたんですが、それなりに仲間に恵まれましてね。今、スケートリンクの設営やリンクの管理などをしている会社、パティネ商会を作られた大橋和夫さん。大橋さんが米国から連れてきた垣田さん(垣田一彦氏)。垣田さんは私たちの知らないバックスクラッチスピンなどをやって見せてくれるんです。『ああ、これが!』と思いながら、初めて見るスピンを勉強したりして」

 城田「垣田さんには私もちっちゃいころ、後楽園のリンク近くの公園で鬼ごっこや、かくれんぼで遊んでいただいてました」

 都筑「垣田さんを米国に連れてこられた大橋さんも、スケート靴を海外から取り寄せたり、ザンボニーを輸入したり…。私も大橋さんの経営するリンクで、スケート教室をやらせていただきましたね。大橋さん、誰にでも公平に、色々なことを教えたり力になってくれたりした方なんです。当時はスケートをやる人間というと、なかなか特殊な人々が多かったけれど…」

 城田「製薬会社の息子さんとか、航空会社の創設者とか、鉄道会社の一族の方とか」

 都筑「本当に裕福な方しかスケートなどやれなかったんです。私たちにスケートが出来るなんて、なかなか考えられなかった。その中で僕などは、ハングリーになりましたよ。後楽園の連中に負けるもんか!なんてね(笑)。選手時代も、コーチになってからも、ちょっと反骨精神のようなものがあった」

 城田「そのなかで佐野君を見つけて。山梨から東京の先生のお宅に引き取られたんですよね?」

 都筑「そうです。小学校5年生のころから、うちに下宿させたんですよ。スケートをやるような身分じゃないコーチは、山梨の子どもに言ったんです。『お前はスケートで世界の一番になるんだ!』って(笑)」(続く)

★★★

2011.06.21 日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(2)
http://hochi.yomiuri.co.jp/column/shirota/news/20110621-OHT1T00185.htm

 佐野稔の1977年世界選手権(東京)での演技―。それは、今もジャンプ王国として名高い日本の、最初の世界メダリストとして、実にふさわしい演技だった。当時は男子でも、3回転を一つ二つプログラムに入れるのが精いっぱいの時代。その時代に、何と彼は5種類の3回転を計7度跳び、フリーでは1位。コンパルソリーの7位、SP5位からの銅メダル獲得となったのである。当時世界一のジャンパーを育てたのが、選手としても指導者としても無名だった都築章一郎コーチだったことに、やはり驚かざるをえない。ひたすら彼に3回転ジャンプを身につけさせるための練習の日々…。氷上練習だけでなく、体作りのための陸上トレーニングを、日本のフィギュアスケート界で最初に始めたのも、彼らだった。

 ◆都築氏・城田対談

 城田「選手とコーチの関係って色々あると思うのですが、都築先生の場合は、もう最初から佐野君を世界のメダリストにしたいという思いがあった」

 都築「もうひと目見たときから、この子は世界の一番になるな、と思ったんです(笑)」

 城田「どこがいちばん違いましたか?」

 都築「いやあ、まず彼は、賢かった」

 城田「賢かった!」

 都築「そして非常に、フィギュアスケートに向いていたんですよ。このスポーツをするために生まれた、素養みたいなものを誰よりも持っていましたね。さらに大きな決め手は、彼にはご両親のしっかりした理解があったんです。だいたい私のような人間に、大事な息子を預けようなんて、ちょっと考えられないでしょう? 経験があるわけでもないし、テクニックがあるわけでもない。こんな人間を頼って、彼を預けてくれた、全面的に任せてくれた…。そんな出会いは、なかなかないんじゃないかな。任された私としても、ご両親の信頼には、何か大きなものを感じましたね」

 城田「親御さんにも直感があったと思うんですよ。この人に息子を賭けてみようって思えるものが、都築先生にはおありだった。じゃなかったら、親はそこまでしないと思います」

 都築「そうかもしれないですねえ…」

 城田「だから私は、双方にラッキーな出会いからスタートしたと思うんです。ただね、その後はきっと、楽なことばかりではなかったでしょう?」

 都築「もう、楽でないことばっかりですよ(笑)。環境的にも、私たちは厳しかったですね。子ども時代はそれこそ後楽園のリンクのような設備の整ったいいリンクで滑らせてあげることができなかった。佐野と僕には、いろいろなハンデがありましたね。そのハンデを背負いつつ、まだ小学校2、3年生のころから、人が聞いたら驚くような練習をむちゃくちゃやっていましたから。世界のトップクラスにするためには、ジャンプは3回転を5種類! そんなもの、私が跳んだ経験はもちろんないし、教えた経験もない。だいたい日本で出来る選手など一人もいなかった時代です。だからしゃにむにやるしかなかった。理論的にジャンプを考えて、こう練習したらこうなるから、こうするんだ、なんて考えるのは二の次。まずはあらゆることを佐野にやらせてみて、その中から何かを見つけていく。そんな形の練習ばかりだったんです。だから今考えれば、人間の肉体的にもかなり限界、はち切れる寸前までの状態で彼は過ごしていたと思う。小学校2年生からメダルを取る22歳まで、それがずっと続いていたんです」

 城田「そのころのフィギュアスケートの練習って、もうちょっと優雅というかのんびりしたものというか…。何せ、お坊ちゃん、お嬢ちゃんのスポーツでしたから(笑)。でも先生たちのトレーニングは、はたから見ていてもほんとうに厳しかった。『ええっ? ここまで厳しくなくてもいいんじゃない?』って思うほど押して押して、という練習でしたよね」

 都築「もうそれは間違いなく厳しさのみ、でしたね」

 城田「私がよく覚えているのは、先生たちの陸上トレーニング。スケート選手が陸上での練習、なんてものを始めたのは、都築先生と佐野君の時代から、ですよね?」

 都築「そう、当時はスケーターが陸上トレーニングなんてナンセンス、って思われてましたよ」

 城田「それがもう、しごいてしごいて、起き上がれなくなるくらいの陸上トレーニングなんですよ。あの過剰さは、今はもう絶対出来ないものですね」

 都築「私たちが影響を受けたのは、日大のスピードスケートの選手たちなんです。当時、日大には五輪候補選手がたくさんいて、彼らがみんな陸上トレーニングに力を入れていた。僕たちは『佐野が強くなるためには、どうしたらいいんだ?』『とにかく3回転だ。3回転を絶対に跳ばせるんだ。そのためには?』と日々模索しているところに彼らのトレーニングを見て、『あ、これだ! これをフィギュアにも取り入れなくちゃいけない!』ということになったわけです」

 城田「軽井沢の合宿などで私も見ていたんですが、うさぎ跳びやら何やら…。もうはたから見ていてかわいそうになるくらいの厳しさ。一体これが、スケートの何に必要があるの? って思ったんです。かえって腰をダメにしちゃわないかしら? って。そうしたら先生、『今回はこういう合宿なんです。黙って見ててください』って(笑)」

 都築「でもその陸上トレーニングが、佐野が3回転を跳べる体を作った、一番の要因だったと思いますよ」

 城田「確かに、今考えればあのトレーニングには、無駄も多かったかもしれない。でもその無駄も含めて、将来につながったんですよね。きちっとメソッドにのっとったものではなかったけれど、ジャンプを跳ぶため、コンパルソリーでしっかり氷に乗るための足をどう作るか? 先生は自分なりに一生懸命考えられた。その結果、世界選手権で佐野君は3回転を…」

 都築「5種類を7回」

 城田「5種類を7回、成功させたんですよね。私もあの試合は立ち会っているんだわ。フリーはジャンプがパーフェクト! 今みたいにジャンプはいくつまで、って決まっていないルール。時間が決められているだけで、好きなだけ跳んでいいルールでしたね。そこまでのジャンプを大舞台で佐野君は成功をさせた。その影にはもう一つ、都築先生と佐野君の母校である日大の力があったのではないかしら?」

 都築「そうなんです。陸上トレーニングに関して色々手伝ってくれたのが、日大スケート部の山崎善也監督。氷上でのジャンプ練習に関して、僕とさんざんディスカッションしてくれたのが、森山繁夫氏。僕らは環境にはハンデがありましたが、人には恵まれていたな」

 城田「フィギュアだけでなくスピードスケートも巻き込んで、日大が一つにまとまって、佐野君を表彰台に上げるために協力してくれたわけですね」

 都築「その通りです。また佐野の場合はご家族もね…。ご両親は山梨で旅館を経営されていたので、それほど頻繁には東京に出てこれない。代わりに彼のお兄ちゃんが弟の稔を支えるために、東京に来てくれてね。食事の面倒から何から、つきっきりでかなり協力してくれました。地方から親元を離れて東京であれだけの練習を積むなんて、大変なことですよ。そしてなんといっても佐野自身が頑張りやでね。私も頑張りましたが、佐野がひたすら苦しいことにも耐えて、練習についてきた。家族も本人も非常に忍耐力がありましたね。その根幹にやはり、『おまえは世界一になるんだ!』という僕の言葉と、それについてきてくれた彼らの信頼。そんなものが、日々の努力と、何も見えない中で模索を続ける私たちの、一番の支えでした」

 城田「その様子は、外から見ていてもよくわかりました。でも、国内での練習や努力にも限りがあったわけで…」

 都築「そう。ジャンプの練習以外に何をすればいいか、と考えた末、ロシアに佐野を連れていくことになったんです」(続く)

★★★

2011.06.30 日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(3)
http://hochi.yomiuri.co.jp/column/shirota/news/20110630-OHT1T00151.htm

 日本人で最初の世界選手権メダリスト、佐野稔。ジャンプ能力などに秀でた彼ではあったが、日本国内での練習だけでは、やはり世界のトップスケーターと渡り合うには限界があった。まな弟子をさらに強くするために必要なものは何か―。都築章一郎コーチは、フィギュアスケートの伝統国であるロシアに目を向けることになる。はるか遠い大陸に渡った若き師弟が、驚がくしつつも学んだものとは何だったのだろう。

 ◆都築氏・城田対談

 城田「佐野君を連れて、ロシアへ―。まず彼と一緒に練習に出かけたんですか?」

 都築「いや、実はいきなり、ロシアの試合に出させたんです。日本で試行錯誤を重ねて、7、8年目くらい、佐野が14、15歳くらいのころかな? まだまだスケーターとして完成されていない佐野と、当時ペアをしていた長久保も一緒です。今のロシア杯の前身にあたる大会に、みんなで出場して…。それでまあ、ショックを受けたわけですよ。試合の結果など、言わずもがな(笑)。それ以上に僕たちは、ロシアのスケートを初めて見て、さらにエキシビジョンから何からすべて初めて見て…。もう、本当にショックでね(笑)。僕も選手たちも、みんなどうしたらいいのか、わからないような思いだった」

 城田「ロシアから都築軍団が帰って来た時にね、『すごいんだ、やっぱりアメリカじゃないんだよ。ロシアに目を向けなきゃいけない!』。そんな話を先生から聞いたのを覚えていますよ(笑)」

 都築「そんな話もしましたか(笑)」

 城田「それは驚きますよね。当時からロシアのスケートのコリオグラフィーはすごかった。音楽とスケートの調和の素晴らしさ、バレエの要素が氷上に反映される、その美しさ…」

 都築「氷上の動きと、バレエの動き。これが一体となって常にそこにある、そんなスケートなんです。選手たちは毎日、氷の上に乗る前に必ずバレエのレッスンを受ける。そのバレエの素養を基礎からきちんと身に付けた選手たちの演技を見て、フィギュアスケートもスポーツってだけじゃない、やっぱり芸術なんだなってことを僕はそのとき知ったんです。そうか、スケートって、僕たちの考えていたものとは違う。こういう選手を、日本も作らなくちゃいけないんだ、と」

 城田「一気にやらなければならないことが広がりますよね。音楽、振り付け。そこに気を使うために、美しいポーズを取らせるために…。選手たちの体も基礎から作らなくちゃいけない」

 都築「さらに芸術面だけでなく、ロシアの選手のジャンプの軸の取り方のうまさなどにも、圧倒されましたしね。ジャンプに関してはある程度頑張って来たつもりだったけれど…。僕のそれまでの独りよがりの指導が、すべて吹っ飛ぶような思いでした。さらにはコーチも専門的なジャンルに分かれていて、振り付けの先生、バレエの先生、ジャンプの先生…。すべての専門家がそろっていた。当時の日本じゃ、そんな指導方法など考えられなかったですよ。もう、スケートを教える、その仕組みからして全然違っていたんです」

 城田「そこで驚いているところに、デュークとルイシキンに出会うわけですか?」

 都築「そう。ロシアのペアの名コーチ、スタニスラフ・アレクセイ・デュークと、振り付けや音楽の専門家、ヴィクトル・ルイシキン」

 城田「すごい先生たちですよねえ」

 都築「2人を紹介してくれたのは、当時のロシアスケート連盟会長のブァレンチン・ピセフ氏です。ロシアのスタイルを学びたいという私たちにとてもよくしてくれて、日本にロシアのスケートを伝えることに、とても力を入れてくれた。彼のおかげで、当時の五輪王者を育てたすごいコーチたちを紹介してもらって、佐野をはじめ日本の選手たちが指導を受けることになったわけです」

 城田「まあ、めったに教えてもらえるコーチではない」

 都築「そのころはまだ、(タチアナ)タラソワとか、タマラ(モスクビナ)はまだまだ若手で(笑)」

 城田「(アレクセイ)ミーシンも、若手と言う時代でしたか? 今の一流の名コーチたちの、さらに上の先生たちに習うことになったわけですね」

 都築「はい。まあ、とにかく、初めて行ったロシアで違う世界を見てしまったものですから、何とかしてこれを吸収しよう、しなくちゃいけない、と。せっかくロシアと交流できるというすごいチャンスを得たんですから、それをどう日本に導入していくか、選手たちの練習に反映させていくか。ずいぶん考えましたよ」

 城田「先生たちがそのロシアのコーチたちを日本に呼んで、夏休みの選手たちと合宿をしていたこと、覚えてますよ」

 都築「そのころになると佐野も力をつけてきていますし、日本スケート連盟もかなりバックアップしてくれるようになりましたね。日大の友人たちは相変わらず力になって、『デュークを呼ぼう、ルイシキンを呼ぼう!』と盛り上げてくれた。さらにはダイエーの中内功さんも協力してくれるようになった」

 城田「東武百貨店のリンクでお仕事をしていて、それから品川のリンク(西武)に移り、選手を指導していた都築先生をダイエーグループが誘い、新松戸の新しいリンクに招いた。『リンクは君に任せるから、いい選手を作って下さい』と」

 都築「彼らを日本に呼ぶための金銭的な援助も得られて…。そんな道もありがたいことに開けてきたんです。初めてロシアに行った年から毎年毎年、春、夏、冬とデュークやルイシキン、さらにボリショイバレエの一流の指導者などを日本に呼ぶことになりました。そんな交流が、それから10年は続いたでしょうか。デュークなど、長い時は半年くらい日本に滞在してくれましたし」

 城田「確か五輪後に、ロシアの選手たちが日本に立ち寄ってエキシビションをしたりもしましたよねえ~」

 都築「リレハンメル五輪の後ですね。佐野の時代から始まって、彼だけでなく、当時の新松戸のダイエーのリンクの子どもたちは、ずいぶんロシアの指導者や選手たちの影響を受けたと思います。五十嵐文男、松村充、無良隆志、重松直樹、天野真…」

 城田「ダイエーのリンクから育ったペア、小山朋昭君と井上怜奈ちゃん、それからロシア人のアレクセイ・ティホノフと組んだペアの川崎由紀子ちゃん。彼女たちも大きな影響を受けていますよね」

 都築「新松戸で育った川口悠子が、のちのちロシアを選んだことも、そんな根っこがあると思うんです。彼女もダイエーのリンクでたくさんのロシア選手たちや、練習の仕方も見ていて憧れていた。それでロシアのタマラに手紙を書いて。という経緯があるんですよ」

 城田「実はこのロシアとの交流は、他にも様々な部分で影響をもたらしているんですが…。本題の佐野君に戻ると、彼はそうしてロシアのスケートを吸収しながら、毎年ロシア杯に出場を続けていたんですね」

 都築「そう、でもやっぱりなかなか点数を上げてもらえなくてねえ(笑)」

 城田「ところがそんな努力を続けていくうちに、ある年に表彰台に上がってしまった!」

 都築「(中学生だった)佐野が初出場から7年後、ついに本場ロシアの試合で、3番になってしまったんですよ!」

 城田「あのときはロシアの観客も、関係者もうびっくりしていて(笑)。やっぱり佐野君はすごいなとの思いと同時に、都築先生の肝いりの佐野君がやはり熟しつつあると思いましたよ」

 都築「そうですね。国のお歴々が見に来るような大きな試合でね。選手たちと僕とでロシアへ行って驚いて、何とかこのスケートを吸収しようと、その衝撃を大きなエネルギーに変えて頑張って…。そしてやっと、憧れていたロシアの地で表彰台に立つまでになったんです」(続く)

★★★

2011.07.06 日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(4)
http://hochi.yomiuri.co.jp/column/shirota/news/20110706-OHT1T00231.htm

 持ち前のジャンプ技術をさらに磨き、ロシア人指導者とともに芸術面もブラッシュアップ。都築の試行錯誤と情熱で育て上げた佐野稔という逸材は、世界選手権メダリスト(銅)にふさわしい選手へと成長していった。しかしまだ、足りないものがあるのでは? 一選手と一コーチだけでなく、日本のスケート界が総力を挙げ、一人のメダリストを生み出そうという熱が高まるなか、1977年、史上初めて日本で開催されるフィギュアスケート世界選手権が近づいていた。

 ◆都築氏・城田対談

 都築「佐野が3位に入った世界選手権の時、城田さんが連盟のスタッフにいたのは覚えてますが、その前、僕らがしゃかりきになっていた時期、城田さんは何をやってらしたの?」

 城田「私はまあ、ゆっくり家庭生活を楽しんでましたよ。もうスケートなんか二度とやるまい、なんて思って(笑)」

 都築「ああ、私の記憶にもあります。一度スケート界から逃げたんですよ、この人は(笑)」

 城田「結婚して、子供を産んで、育てて…。時々、三笠宮さまのダンスのお相手をする程度で」

 都築「でも、すぐに引っ張り出されたんでしょう?」

 城田「子どもが小さなうちは、『すみません、少しずつしかできません』って言ってたんですが、小学校に上がった途端、ガアァっと使われるようになってしまいましたね。『何やってるんだよ、のこちゃん。そろそろ戻ってこい!』って(笑)」

 都築「それからはもう、怒とうのように?」

 城田「東京の世界選手権のスタッフをしてからは、もうどっぷり使われるようになってしまいました(笑)。でも当時の強化部長、竹内さん(竹内巳喜男氏)も必死でしたよね。何とかして世界選手権を日本に持ってきて、日本で佐野君にメダルを取らせよう、って」

 都築「当時は僕たちインストラクターもいろいろなものを一から身につけようと必死だったけれど、連盟の運営に関しても、様々な試行錯誤を重ねていたんだと思います」

 城田「その中からしっかりした組織を作って、国際スケート連盟での地位も固めていって、77年にやっと東京に世界選手権を招へいすることが出来て…。スケート連盟の竹内強化部長、それから都築先生の先輩の大橋さん(大橋和夫氏)、土ケ端さん(土ケ端武志氏)。お2人とも私の大学(立教)の先輩でして。特に土ケ端さんは、切れ者でね」

 都築「城田さんによく似た方なんですよ(笑)」

 城田「敵が多いところが?(笑)いやいや、土ケ端さんは敵は多かったかもしれないけれど、バシッと決断すべきところは決断したし、彼の懐の中に一度入れば、あらゆるものがしっかりと動き出したんです。私なんて、土ケ端さんに言われましたよ。『城田は5年、いや10年黙ってろ!』って。10年は自分の考えで動くな。黙って俺の言われたことだけをやれって、言われたんです」

 都築「へええ」

 城田「でも私、3年くらいで自分の考えを言うようになりましたけどね(笑)。それは77年の東京の世界選手権の後の話。そんな切れ者たちが東京で佐野君にメダルを取らせるために、みんなで寝ずにアイディアを出しあって、日本のスケートとスケート連盟を作っていった。大変だったと思うんですよ」

 都築「とにかく世界に通じる選手を作ろう、とかなり熱が入っていましたね。72年の札幌五輪が契機になったんでしょう。あの頃から、日本のスケート界もずいぶん変わっていった。そして大人たちが頑張る一方、選手たちもどんどん育っていったんです。佐野、長久保に続いて、松村充、五十嵐文男と、男子の新人が続々と出てきていました。五十嵐なんて佐野以上の素質があって、僕はこの男には4回転を跳ばせよう、なんて思ったくらいです。その当時、76年くらいのころですが、トリプルアクセルでさえ、『そんなもの練習させたら、選手を殺しちゃうからやめとけ!』なんて言われてた。そのころに『この男なら4回転、行けるかもしれない』と」

 城田「五十嵐君の練習には、私も付き合わされましたよ。足りないところが客観的に分かるようにビデオで演技を撮ったりしてね」

 都築「五十嵐が伸びていく横で、松村も一緒に練習していたし、そんな若手に追いつかれまいと佐野も必死に頑張って…」

 城田「男子選手が束になって競い合っていたんですよね」

 都築「選手たちにとっても、ライバルが多いということは非常にいい環境だったと思います。日本のスケート界のレベルが上がる、その絶好のチャンスだった」

 城田「佐野君も、ロシアの指導者に習った。ライバルも出てきて、さらに強くなった。でもそんな彼に、まだ足りないものは何か、って考えたら…」

 都築「それはもう、コンパルソリー(規定)、でしたねえ」

 城田「そう。当時はSP、フリーの前に規定があって、シングルも試合が3つあったんです。そのうちの規定が、どうも佐野君は苦手だった」

 都築「私も規定を教えるのが苦手だった。あの、じっくり時間をかけて練習しなくちゃいけないのが、どうしても嫌だったんですよ(笑)。それで佐野の規定の指導を、信夫先生に依頼したんです」

 城田「佐藤信夫先生。まあ当時の都築先生と信夫先生は、言ってみればライバルですよ。その2人が日本人メダリストを作るために、手を組んだ! 信夫先生はご自分が日本のトップ選手。世界でもメダルには届かなかったけれど、日本人で初めて世界選手権で4番にまでなった方。割とまあ、のんびりしてらっしゃる」

 都築「僕と違ってね(笑)」

 城田「信夫先生はコーチとしても、階段を一つずつ一つずつじっくり上がっていけばいい、って構えだったんです。でも都築先生は、『これもやんなきゃ!』『何が何でも強くならなきゃ!』って、勢いで必死に駆けあがろうとするタイプ」

 都築「まあ、そういう違いはありましたね(笑)」

 城田「指導者としてもまったく違うタイプの2人が、まあ良く手を組んだものだな、と」

 都築「最初のうちはね、僕から必死に頼んでも、信夫先生はなかなか返事をしてくれなかったんです。あの先生は、いつも出し惜しみするんだ(笑)。だから『そんなに待たされたら、世界選手権終わっちゃうよ!』って僕も怒ったりして…」

 城田「結局は、竹内強化部長が他連盟の方たちが見えないところで調整もしてくれて、信夫先生による佐野君の指導は実現したわけですね」

 都築「もう頼んで、頼んで、やっと引き受けてもらって。そりゃあ大変なものでしたよ。でも信夫先生の指導のおかげで、世界選手権の規定で佐野は7番になれた。そしてSPで5番、フリーで1番で、総合3番!」

 城田「あの展開も、一つのドラマでしたよねえ」

 都築「最後の最後に、信夫先生始め色々な先生が協力してくれて、みんなでいい選手を作ろうと日本のスケート界が一つになって…。僕と佐野もずっと以前から、スピードスケートの陸上トレーニングにしても、ロシアの芸術にしても、どんどん吸収していこうという姿勢があった。皆さんに協力してもらって強くなろう、という気持ちがあった。そこにたくさんの方が、こぞって力を貸して下さった」

 城田「そのころの日本のスケート界、みんなスケートに対してほんとうに一生懸命で、そしてすごく謙虚だったんじゃないかな、って思うんですよ。自分一人でうまくなったんだ、なんて決して思わない」

 都築「そうかもしれませんね」

 城田「様々なことがあって、佐野君は世界の表彰台に。都築先生の実力も、名実ともに認められて、世界選手権後も先生は様々な活動をしていくわけです。でもやっぱり日本で最初のメダリストを育てたこと。批判もたくさん起きるなかで、すべてをくぐりぬけてしっかりと彼を表彰台の上にあげたこと。先生のやられたことは本当に勇気のいることだし、誰も足を踏み入れたたことのない場所に分け入っていった。もちろん多くの方の協力あってのことだけれど、でも都築先生でなければ、ここまで見えない道を進んでいく勇気は持たなかっただろうな、と思うんですよ」

 都築「まあ、色々なことをやりましたね(笑)」

 城田「やっはり一番最初の人は、無駄なこともたくさんやらなくちゃいけない。たくさんの無駄の中から物事の軸、本質は見えてくるものだから」

 都築「うん、それはありました」

 城田「一度誰かが道を作ってくれれば、後から来る人はその道を行けばいいわけで、ずっと楽なんです。誰よりも大変な、その未踏の道を作っていったのが、都築先生」

 都築「ありがとうございます。恐縮です(笑)。確かにやらなくていいようなことも、僕と佐野はたくさんやってきて…。その中から大切なものを見つけ出した。偶然気づいた、『あ、これはいいな』って思えることを、コツコツと見つけ出していくしかなかった。無駄だと分かっていても、思いついたことはどんどん選手にやらせて、どれが正しいのかを考えて、本当に回り道もした。そんなたくさんの「無駄」のなかから誕生したのが、佐野稔というメダリスト―そんな気がしますね」(続く)

★★★

2011.07.12 日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(5)
http://hochi.yomiuri.co.jp/column/shirota/news/20110712-OHT1T00287.htm

 佐野稔を世界選手権メダリストに育て上げた後も、都築氏の様々な試みは続く。選手育成はもちろん、コーチの社会的立場向上にも力を入れ、インストラクター協会設立などに尽力。さらに彼の育てた選手たちは全国でコーチとして活躍をはじめ、がむしゃらに作った日本のフィギュアスケートの流れの一つは、脈々と息づいていく。

 ◆都築氏・城田対談

 城田「インストラクターたちのリーダーのひとりとして『プロ協会』の発足にも関わってらっしゃるんですよね。日本プロスケート協会―今の日本フィギュアスケーティングインストラクター協会ですね」

 都築「話し始めると、いろいろ出てきますね(笑)。なんだかもう、この50年間、色々な事がありすぎて」

 城田「私たちの先生の世代に当たる、片山先生(片山敏一氏、1936年ガルミッシュパルテンキルヘン五輪出場)、稲田先生(稲田悦子氏)といっしょに。彼らとともにプロ協会の最初の理事の一人となったのが、都築先生。先生はご自身が苦労してきた分、スケートのコーチも組織として何かしっかりした基盤を作り上げていこう、と考えられた」

 都築「初めに当時のコーチたちの間で、親睦の集まりみたいなものがあったんですよ。そこで世の中からスケートのコーチがきちんと評価を受けられるようなシステム作りをしたい、という考えを話し合うようになりました。そのためにまず、資格制度を取り入れることになったんです。僕らが作った『フィギュアスケートインストラクター』という資格、これをきちんと取得していれば、まずはスケートのコーチとして信頼される、習う人にも信頼感を持ってもらえる、そんなところを目指しました。そして資格を得た人は、我々のインストラクター協会に所属します。将来的にはきちんと世の中から評価を受ける組織になって、このなかで日本のコーチも育っていく、レベルも向上していく、という形にしたいと」

 城田「今は日本のほとんどのスケートの先生が、インストラクター協会の会員ですね」

 都築「現在は全国で200人近くが資格を取っています。当初目指したような発展もしてきましたし、いい取り組みができてきたな、と思ってますよ。もし今、インストラクター協会がなかったら…」

 城田「大変ですよ! スケートのコーチという職業、いつまでも身分が保障されないままになっていましたから。保険にしても年金にしても、何の保証もない。一人で選手を教えるだけで、年をとったら終わり、ってことになってしまっていた。しかし、インストラクター協会に所属していれば、そうした部分も組織的に面倒を見てもらえる」

 都築「その点も、大きいと思います。やっぱりみんなスケートの好きな人たちの集まりですから、そんな取り組みも協力し合えた。おかげさまで今、日本でも若いスケーターでコーチになろうという人もずいぶん多くなりましたし、これからはもっともっと増えていくと思います」

 城田「都築先生にしろ、大橋さんにしろ、土ケ端さんにしろ、当時の先輩たちが自分だけのためでなく、スケート界全体のために様々に考えながら活動してらっしゃったこと。当時の私はまだまだ若くて、みんながお酒を飲みながらそんな話をしているのをただ聞いていただけの時代ですが、少しずつ私の中で肥やしになっていったかな。強化の仕事を始めた頃はまっさらで何も知らなかった私も、先輩たちや都築先生達に鍛えられて、いろいろな経験をしました。土ケ端さんに言わせれば、『叩き台があったから、叩いたんだよ。叩き台がなかったら、どうぞお嬢さん、そこで座ってて下さい、で終わってたよ』なんて言われましたが(笑)」

 城田「それから都築先生といえば、ペアやアイスダンスの選手をたくさん育てた点でも、日本のコーチとしては珍しい存在です。お嬢さんの奈加子さんもダンスで日本を代表する選手になり、ペアも岡部由紀子&無良隆志組、井上怜奈&小山組朋昭組、川口悠子&アレクサンドル・マルクンツォフ組と育てていますけれど、このきっかけは?」

 都築「ペアはですね、実はシングルの選手をより強くするために練習させたんですよ。初めの長久保(長沢琴枝&長久保裕組・札幌五輪出場)たちも、井上(ペアでアルベールビル五輪出場後、シングルでリレハンメル五輪出場)たちもそうです。これも最初は、『何が正しいかわからないから、とにかく何でもやらせてみよう』から始まったんですが(笑)。ペアを滑ることによって、シングルの選手としての軸もしっかり作れる。男子なんて、自分がしっかりしていなければ、女子を投げたり持ち上げたりできませんから」

 城田「シングルのための、ペアだった?」

 都築「実はそうです。たとえば無良などは、ペアとシングル両方で世界選手権に出て(1980年)、シングルで11番、ペアで12番だったんですよ。両方練習しながらも、初めての年でこの成績です。ペアなんてまだ2年もやってない状態で、世界選手権にも出られちゃった」

 城田「無良君が、とてもしっかりしていましたよね。もっともっと評価されていい選手だった」

 都築「井上も日本でペアをやっていたのは、たった3年ほどです。非常に短期間で五輪に出られて、シングルの選手としてもいい影響があった。でも残念ながら日本では、ペアの選手への評価があまりにも低かったですね」

 城田「それは私も、かわいそうだったな、と思ってるんですよ。特に無良君なんて、もっと連盟としても力を入れてあげるべきだった」

 都築「今もそうですが、当時はもっと認めてもらえなかったですから。本来でしたらシングルと同じように評価されて、力を入れてもらっていいのに、と私は思っていたんですが、なかなかそこまでは出来なかった」

 城田「日本は昔から、カップル競技には冷たいから」

 都築「今は新しいルールで、ジャンプだけでなく総合的なものを評価する時代になったので、ペアなどはますます近寄りがたい種目になってしまいました。あの頃から育成を続けていれば、もっと日本のペアの基礎は出来ていたはずなんですが…。また、アイスダンスもしかりです。うちの娘にやらせていたんですが、あれはもう、辛かった(笑)。日本では相手がいないということで、崩壊前のソ連に娘を連れていって、(ナタリア)リニチュクにいいパートナーを紹介してもらって、それでも何度かパートナーを変えたりもして。ペアやダンスでもロシアに助けられていますね」

 都築「私も奈加子ちゃんが世界選手権などに出るとき、何度かチームとして同行しましたよ。正直にいえば、シングルを追いかけるだけで大変だったんです。派遣される連盟のスタッフの人数も今より少なかったので、『奈加子ちゃん、どう? 頑張ってる?』なんて声をかけるだけでせいいっぱい。『今回は公式練習、この時間しかダンスは見てあげられないの』」なんて、ダンスやペアの選手たちには本当に時間をかけられなかった。今も新松戸で育った高橋成美ちゃんなどが頑張ってはいますけれど、大変ですよね」

 城田「一方でシングルの方は、長久保君、無良君、重松君(重松直樹コーチ)と、先生の育てた選手たちがコーチとして全国で活躍しています。彼らみんな、新松戸のダイエーから育っていった選手たち! 考えてみたらすごいことです。特に、仙台でコーチをしていた長久保君」

 都築「はい、新松戸の後に仙台にもダイエーのリンクができるというので、まず長久保を派遣したんですよ。そこで彼は本田武史に出会って、荒川静香に出会って、彼らが仙台から育っていった。あの当時も、ロシアのコーチに仙台に行ってもらったりして、いい形で交流も続いていきました」

 城田「ダイエーのリンク、新松戸に続いて仙台でもいい選手を輩出し続けていきますね」

 都築「やはりダイエーの中内功さんのバックアップは大きかった。ありがたいことです」

 城田「2つのリンクの選手たちがあまりに優秀なので、フィギュアスケート界はしばらく、ダイエー天下が続いたくらい(笑)」

 都築「仙台では、ロシアからさらに世界に目を向けて米国の振付師、ロバート・ダウを呼んで指導を受けたりもしていました。若い頃の本田のプログラムがロバートの振振り付けですね。長久保はじめ仙台のコーチたちも非常に頑張って、どんどん世界の空気を日本に入れていこう、と。そんなふうに次の世代につながっていったことは、私の一つの宝だな、と思っています。世界のたくさんのコーチに出会って、教えてもらって、その流れを自分の選手たちも受け継いでくれて、みんながコーチとして活躍して…。さらに新しい世代の子どもたちも、いい流れの中で頑張ることができています」

 城田「みんな先生の、反骨精神からスタートしたこと。おっとりしたお坊ちゃん、お嬢さんが多いフィギュアスケート界では、なかなか先生のようにがむしゃらにやる方はいなかったな、と今は思うんですよ。そしてその流れの中で育ってきて今、先生が臨時コーチ的に教えているのが、羽生結弦選手」

 都築「そう。彼がノービスのころまでは僕も仙台にいましたので、少し練習を見ていたんです。それが今回、未曾有の出来事(東日本大震災で仙台のリンクが被災し、現在閉鎖中)があって、今、僕が教えている東神奈川のリンク(神奈川スケート)に来ることになりまして」

 城田「彼は本当に、リンクがなくなったからといって、絶対にあのまま終わらせてしまってはいけない選手。私も今まで選手たちを見てきて、いいな! と思ったのに伸び切らなかったもったいないスケーターがたくさんいましたが。でも彼は、そんなことになったら絶対にいけない。もう動きからして半端ではない、極上の選手ですよ」

 都築「はい、私もたくさん選手を見てきましたが、羽生くらいすべてが整っている選手はいない、と思っています。それほどの選手です」

 城田「ですから、きちんと環境を整えてあげて、スポンサーも探してあげなくては。氷の上できちんと戦っていけるように、指導者にしても振り付けにしても、どんどんいいものに接するチャンスを与えてあげなくちゃいけないと思うのです」

 都築「本当に、またかつてと同じように、日本の皆さんみんなの力をお借りして、なんとかみんなで羽生を育ててもらいたいな、と思っています。今、かつて佐野に言ったことと同じことを、羽生に言ってるんですよ。『おまえは世界に羽ばたくんだよ!』と(笑)。今になってまたそんな言葉がかけられる選手が出てきてくれて、私は幸せなコーチだな、なんて思いながら、彼の練習を見ているところです」

 城田「今回はロングインタビューありがとうございました。都築先生のますますのご活躍を期待しております」(この項終わり。次回は長久保裕氏)