2017.04 - 文藝春秋 - 羽生結弦の扉~真の王者であること (宇都宮直子)
羽生結弦の扉~真の王者であること
文藝春秋 宇都宮 直子
source: オール讀物 2017年4月号
http://bunshun.jp/articles/-/2156?page=1
平昌五輪で連覇を目指すための試金石とされたフィギュアスケート世界選手権のフリーで、世界最高得点をマークし、3年振り2度目の優勝を果たした羽生結弦。2014年ソチ五輪以降、成功と不運の間を行き来した"絶対王者"の苦悩に迫る。
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フィギュアスケートを愛する私にはおよそ信じられないが、羽生結弦(はにゅう ゆづる)を知らない人がまだ、けっこういる。
地方の書店の店員もそのひとりだった。
スポーツ誌の名前を告げて、どこにあるかを訊ねると、
「ああ、はぶくんが表紙の」
と彼女は笑顔で言った。
「いえ、はにゅうくんです」
いささか気分を害して、私は答えた。
そういうわけで、まず、羽生結弦がどんな選手かを綴っておきたい。
©榎本麻美/文藝春秋
フィギュアスケートは、冬の華と言われる競技だ。2018年2月に韓国、平昌(ピョンチャン)で開催されるオリンピックでも、必ず人気になる。だから、羽生がどういう選手かを、知っていたほうがおもしろいと思う。
たとえば、平昌には、羽生のオリンピック二連覇が懸かっている。達成できれば、オリンピック史上、アジア初の快挙だ。
羽生は、14年ロシア、ソチオリンピックの金メダリストだった。普段は、カナダのトロントに拠点をおいている。
2015年―16年に世界最高点を更新した。現在まで、それは破られていない。彼のパーソナルベスト、330・43が世界記録である。
また、世界記録は今後さらに、「羽生によって」更新されていくだろう。むろん、言い切れないが、その確率は高いと思う。
羽生の今シーズンのプログラム構成は、昨シーズンを凌駕する。ミス無く滑り通せば、330・43を10点以上、更新することが可能なのである。
羽生は爽快にジャンプを跳ぶ。4回転ジャンプは3種類を持っている。トゥループ、サルコウ、ループだ。
プログラム中のスピンは、すべてレベル4が取れるよう、組まれている。つまり、実施が完璧なら、最高評価のレベル4に認定される。
クラシック曲がよく似合う。芸術性の高い選手だ。長い手足が、リンクに映える。ダンサーのようだ。
性格は気が強い。とにかく強い。日本人離れしている。大勢の人が、そう言っている。私も、そう思う。
フィギュアスケートに限らず、世界レベルで戦う選手はみんな、そうだ。押し並(な)べて、ものすごく気が強い。
昔、スケートではない競技の世界チャンピオン(外国人だ)を取材したときには、息苦しさを覚えた。
言葉は、火の玉のようだった。プライドは天を突くようだった。それはある種、憎悪にも似ていた。
競技は違うと言え、羽生は現在、そういう場所で闘っている。気が強くて、幸いだった。そうでなくては潰されてしまう。
羽生は、きわめてタフな心を持っている。烈しさを慎重に隠している。22歳にしては、ものすごくキュートに笑う。かなり率直に、話をする。
過去、羽生を指導するブライアン・オーサーはどこか面白そうに、にこにこ笑って言っていた。
「結弦は僕の言うことなんて、ちっとも聞かないんだ」
そのくらいで、ちょうどいいのではないか。だから、羽生は強いのだ。たぶん。
インフルエンザでの欠場
ここまで、私は、羽生が優れたスケーターだと書いた。それは、事実だ。疑いようがない。
ただ、ソチ以降、彼が盤石であったかと言うとそうではない。羽生は、成功と不運の間を行き来した。
また、リンクは華やかだ。菖蒲や杜若(かきつばた)が、凛と咲いている。つまり、彼には何人かライバルがいる。
世界選手権で言えば、羽生は2連敗している。2回続けて、銀メダルを受け取った。平昌オリンピックに向け、闘いは熾烈さを増しているのである。
そのあたりのことは、今年2月刊行の小著、「日本フィギュアスケートの軌跡 伊藤みどりから羽生結弦まで」(中央公論新社)に詳しく綴ったが、角度を少し変え、続けたいと思う。3月末にフィンランド、ヘルシンキで開催される世界選手権の展望も含めて、する。
(編集部注:フィンランド・ヘルシンキで開催された、フィギュアスケート世界選手権で、羽生結弦はフリーの世界歴代最高を塗り替える223・20点をマークし、逆転で、3年ぶり2度目の優勝を果たした)
©榎本麻美/文藝春秋
今シーズンの羽生を「ちょっと出遅れた感じがある」とするのは、国際スケート連盟ジャッジで、元日本スケート連盟強化部長の吉岡伸彦氏だ。
「昨シーズンの怪我(左足甲靱帯損傷)の影響を、ある程度、引きずっているのかなと思います。プログラムを作るのが遅れましたし、前半戦は明らかに、滑り込みが足りていなかった。
まあ、そうは言っても、NHK杯では優勝、昨年末にはグランプリファイナル4連覇と、徐々に、調子を取り戻して来ている。
3月に向けても、きっちり仕上げてくるでしょうし、だいじょうぶだと思います」
羽生は実は、「だいじょうぶ」か「だいじょうぶではない」かが、とてもわかりにくい選手である。
昨年のボストンでの世界選手権も、そうだった。
羽生の左足は、腫れ上がっていた。それでも、試合を放棄しなかった。痛みを一切口にしなかった。
どちらかと言えば、彼は「だいじょうぶ」にしか見えなかった。負けん気が強すぎて、退かないのではなく、退けなかったのだと思う。
しかし、羽生は昨年末の全日本選手権を棄権した。インフルエンザだった。
吉岡は話す。
「全日本は、独特の緊張感のある試合です。その緊張を経験しなかったのは、マイナスだと思います。
でも、体調が悪いときは、休んで治すのが普通というか、当然です。無理をして、変な演技をするよりはよほどいい。
彼の立場なら、全日本を欠場しても、世界選手権出場(全日本選手権は、代表選考会を兼ねる)に影響ありませんでした。
きちんと休めたのはよかったと思いますし、トータルに見て、プラスだったんじゃないでしょうか」
平昌へ続くこれからを思えば、「インフルエンザ」は転機だったかもしれない。休むのは、逃げではない。
また、体調の管理、優先はある意味、選手の務めだ。オリンピック二連覇を目指す選手なら、とくに。
今シーズンのショート使用曲は「Let’s Go Crazy」、ロックナンバーだ。
吉岡は言う。
「本人が好きでやっているんだとは思いますが、あそこまでノリノリの曲でというのは、ショートとは言え、体力的にはきついと思います。
あと、ループをイーグルから入る(難易度の高い跳び方)分、どうしても確率が落ちてしまいます。
部分部分は完璧にこなせているのですが、全体を通しては、まだ、少しきついのかなという印象を受けます」
では、フリー使用曲「Hope&Legacy」はどうか。こちらはクラシックである。
「イーグルを入れないで普通に跳ぶ形では、試合でもほぼ跳べるようになっている。そういう意味では、ループはもう完成したと言っていいでしょう。
ただ、フリーで言えば、4分半を最後まで滑りきるコンディションにまだないのかも。そう思うときはあります。
曲は、ショートのような『一緒に楽しくやろうぜ』風よりは、フリーの雰囲気が向いているんじゃないですかね。
羽生には王道をゆくイメージがあります。上品で、風格がある。彼の個性には、クラシックが合うと思います」
フィギュアスケートは「芸術」という側面を持っている。クラシックが重視される。あるいは、評価される傾向にある。オリンピックシーズンに、正統派のプログラムを持ってくる選手が多いのもそのためだ。
極端な例で言う。
同じ構成で同じレベルの選手が互いにミスなく、演技をしたとする。ひとりはコミカルな曲、ひとりは荘厳なクラシック曲を使った。この場合、おそらく勝つのは後者だ。
さらに言えば、有力選手のほとんどはオリンピックを見据えた選曲を、四年をかけて行う。そうやって、確かめる。観衆、ジャッジに与える印象、評価を見定めてゆく。
吉岡は言う。
「たとえば、振付師がオリンピック直後に、トップ選手から依頼を受けたとします。
依頼にさまざまな形態があると思いますが、引き受けた以上、彼らは『4年をどういうふうに戦うか』を考える。少なくとも、それが基本にある。
こういうのをやって、ああいうのをやってと、いろいろ積み上げて行くんです。それは、選手の引き出しを増やすのに繋がりますし、可能性を広げるのに役立ちます。
羽生の場合も、なにがしかの考えあっての今シーズン、『さあ、みんな、一緒に楽しくやろうぜ』なんじゃないですか。
そして、来年が集大成って感じで持ってくるんだと思います」
集大成の平昌。羽生は、どう闘うのだろう。2シーズン続けて同じ曲を使うケースもあるし、以前の曲に戻すスタイルも珍しくない。
世界最高点をたたき出した、昨シーズンのフリー「SEIMEI」は素晴らしかった。個人的には、また観てみたいと思う。
でも、羽生はおそらく、正統なクラシックで勝負する。そんな気がする。ぜんぜん、根拠はない。強いてあげるとすれば、「彼が2連覇を目指しているから」だろうか。
羽生を追うライバルたち
さて、「なにがしかの考えのある」今シーズンの、世界選手権が近づいて来ている。3月29日から、フィンランド、ヘルシンキで開催される。
たいへん意味深い大会になるだろう。革命が起きるかもしれない。あるいは、下克上というべきか。
10代の戦士たちが、高難度の4回転合戦を仕掛けてくる。虎視眈々と高みを狙っている。試合はすごく、おもしろくなる。楽しみだ。わくわく、する。
羽生結弦は依然として、強い。優れている。だけど、安穏とはしていられない。ライバルは少なくない。あっという間に増えてしまった。
事実、2月に韓国、江陵で行われた四大陸選手権でも、17歳のネイサン・チェン選手が優勝している。
羽生ほどの実績があれば、四大陸での敗北(それでも、準優勝だ)は、さほどの傷手にはならない。ほとんど、問題ない。
だけど、彼は悔しいはずだ。羽生は、勝ちに固執する。四大陸でも、もちろん勝ちに行った。フリーでは3種類の四回転を4回、決めた。それでも、届かなかった。
試合後、羽生は、
「これからさらに強くなりたい」
と言った。
だから、ヘルシンキはおもしろくなる。昨年、ボストンで苦しい思いをした分と、四大陸で勝てなかった分。それらを背負って、羽生は闘うのだ。
吉岡は話す。
「ヘルシンキは、平昌に向けた試金石みたいな趣きになってきましたね。
ネイサンは4種類の4回転を5回跳ぶ。全米選手権のチャンピオン。300点を超える得点を出せるようになっている。
一方、羽生はノーミスで演技できれば330を超える力を持っている。コンポーネンツでも、ネイサンに勝っています。
ただ、ジャンプを失敗すると、コンポーネンツに影響が出る。たとえば、0・5ずつ下がったとすると、全体でマイナス五です。けっこう大きな取りこぼしになってしまう。
とにかくミスをしないことだと想います。ひとつのミスで、(表彰)台からこぼれ落ちるということもあり得る。今回は、そういう大会です。
グランプリファイナルで優勝したとき、羽生の得点は293・90でした。この得点を基準とすれば、クリアするのは、ひとりではありません。
ネイサン、ハビエル・フェルナンデス、パトリック・チャン、それにノーミス時の宇野昌磨も超えてきます。
円熟期にある世代とぐっと伸びてきた若手の闘い。その意味で言うと、台を争う人数は明らかに増えています」
©榎本麻美/文藝春秋
平昌五輪への試金石
吉岡はパトリック、ハビエルを円熟期にある選手とし、ネイサン、宇野を若い子たちと呼んだ。年齢的には、羽生はその中間に位置している。
世界選手権の勝ち方を知っているのは、羽生を含め、上の世代だ。ショートで優位に立ち、メダルが見えたとき、若い世代はどう闘うのだろう。
「若い子たち」には、十分な経験がない。緊張に押しつぶされたりはしないだろうか。
若さゆえ、恐れるものがないという言い方もできる。ソチオリンピックで金メダリストになった際、羽生は19歳だった。まさしく若い世代だ。勝負は、どう転ぶかわからない。
だから、羽生にとって、ここがふんばりどころだと思う。
繰り返すが、ヘルシンキは平昌に繋がっている。誰が、真の王者であるか。正しく示すべきときが、来ている。
吉岡は話す。
「羽生が強いということ、平昌の金メダル候補ということは世界中が知っています。だけど、今後、何もしないでいいというわけでは、まったくない。
ジャンプの数で言えば、三種類あれば組み合わせで5本を跳ぶことができます。ただ、現状では、ネイサンのジャンプのほうが、基礎点が高い。
種類を増やせるのなら、増やした方がいいのは間違いないでしょう。しかし、そうなると、今度は、表現との兼ね合いや体力の問題が生じてくる。
ジャンプを増やしたことで、プログラムが壊れてしまったら、元も子もありません。それでも、挑戦は必要だし、両立させていくべきだと思います」
四回転の時代が始まった。
どこまで進化するのか、わからない。勢いは早い。状況は、簡単に変わってゆく。
でも、変わらないよりは、ずっといい。競技だから、強い方向に進むのは必然だ。
羽生結弦については、健康と怪我以外、あまり心配していない。闘いは熾烈になった。今のままではいられない。だけど、そういうことは、彼がいちばんわかっている。
冒頭の長い紹介を思い出していただきたい。羽生には才能がある。経験がある。だから、ふんばってくれるだろう。
新しい時代に向け、扉は大きく開かれている。そして、その中心に、彼はきっといる。